便利な言葉

環槙一

便利な言葉

 世の中は便利な言葉で溢れている。

 例えば「暇だったら」。これが頭に付くときはだいたい面倒な時だ。でもたまには、十回に一回くらいは気分が乗って誘いに乗ってみたりもする。

 例えば「善処します」。これなんて全くと言っていいほど善処しない。相手の方だってなんとなく諦めてる。でもちょっとだけ期待してしまう感じ。

 そう、曖昧な言葉は付かず離れずとても便利だ。

 他にも例えば……。



「友達以上恋人未満ってどういう状態なんだろ」

 私の言葉に彼は布団の中でもぞもぞと身を動かしこちらを向く。口元に微笑を浮かべて。

「どうしたの急に?」

「なんだか不意に気になって」

「また変な事が気になったもんだね……」

 そう言ったくせに、彼は低く唸りながら眉を寄せる。私の言葉をバカバカしいと言って寝たりせず、こうして一緒に考えてくれるのが彼のいいところだった。

「すごく仲のいい友達」

「でも同性には使わないじゃない。一般的に」

「なら家族は」

「家族のこと、友達以上恋人未満って言ったことある?」

 ないねえ、と彼は少しだけ間延びした答えを返す。

「だいたい、以上で友達は含まれるくせに未満で恋人は含まれないってどういうことなの? ただの友達もこの中に入るの?」

 言葉の迷路の入り口はいつだって難解で、頭がぐるぐると回るほどにテンションが上がる。それまであった眠気と気だるさはすっかりなくなっていた。

ぽん、と彼の手が頭に置かれた。鼻先の触れあう距離にある彼の目は困った色を浮かべていた。

「ごめんなさい」

「何で謝るのさ」

「だって、私あなたの事をほったらかして」

 手が私の頭の形をなぞるように動く。

「いいさ。僕はそんな君を見てるのも楽しいんだから。でも何かあった方がいいだろうと思ってね」

そう言うとベッド横のカラーボックスに手を伸ばす。

取り出したのは辞書だった。分厚い、紙の辞書。

「何で?」

「高校の先生が言ってたんだ。言葉に困ったら辞書を引けってね」

「そうじゃなくて」

 どうして目覚ましや文庫本と一緒に辞書が並んでいるのか、と私は尋ねた。

「寝れない時の手持無沙汰な時間を潰すには絶好なんだよ」

当たり前のように彼は答えたが、さすがに辞書はないんじゃないかという気がして、私は「はあ」と言った。

 これも便利だ。どう返事するか困った時、簡単に間合いを埋めてくれる。イントネーションを変えれば疑問にもなる。

 豆電球の、薄暗いオレンジ色の光の下で私は眼を凝らして辞書を引く。高校入学から電子辞書を使っていたから、この薄い紙の質感は実に五年ぶりだ。


 友達――勤務、学校あるいは志などを共にしていて、同等の相手

     として交わっている人。友人。

 恋人――恋の思いをよせる相手。▽→あいじん(1)

 愛人――①恋愛の相手。こいびと。

 恋愛――男女間の、恋いしたう愛情。こい。


 当然、国語辞典に(友達以上恋人未満)なんて言葉は載っていない。

「……つまりどういうことだと思う?」

「何かしらを共にして同等の立場で交わっている人だけれど、恋の思いをよせるまではいかない相手。ってことかな」

「なるほど」

私はわかったように頷いたけれど、一体何がなるほどなのか、実の所わからなかった。ただこれ以上考えていてもきっと答えは出てこない。迷路の答え、私が求めている答えには。

 彼は私の考えを察してか、また頭を撫でる。いつだって私の心の奥までは触れずに、表面だけをさらりと攫っていく。

 彼はベッドから上半身だけを起こして伸びた電灯のコードを引っ張る。急に明るくなったことで私の瞼の奥が少し痛んだ。

「どうしたの」

「ごめん。こうしないと服がわからなくて」

 そう言うと彼は、ベッドの脇から脱いだシャツとズボンを引っ張り上げて、布団の中で着る。

「喉が渇いたからお茶でも飲もうと思って。いる?」

 私がベッドに横になったまま頷くと、彼はわかった、と立ちあがり冷蔵庫からお茶を取り出してカップに注ぐ。

 その背中にしばらく見とれてから、私は手元の辞書を捲る。


 恋――異性に愛情を寄せること、その心。恋愛。▽本来は、(異性に限らず)その対象にどうしようもないほど引きつけられ、しかも、満たされず苦しくつらい気持を言う。


友達以上恋人未満。同等の相手として交わっている人以上で恋の思いを寄せる人未満。

 だから身体を触れ合わせることもできるし、気をつけていれば面倒もなくいつだって離れることができる。

「私たちは、どっちに近いんだろうね」

 呟いた言葉は小さすぎたのか、彼には届いていないようだった。

 私はどうなりたいのだろうか。

 もし私が「恋人になりたい」と言ったら、何と言うだろうか。

 もし私が「もう会わない」と言ったら、何と言うだろうか。

 彼はどうなりたいのだろうか。

 何もわからずに続ける友達以上恋人未満。

「ほんと、便利な言葉」

「ん、何か言った?」

 カップを運んでくる彼に首を振って、私は口をつけた冷たいお茶ごと、考えるのも面倒な一切を飲み込んだ。



                         了




(辞書の引用は、岩波国語辞典第六版による)

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