第56話 旅程・二日目
「今日は難所がある。各自体力の配分に注意すること!」
出発前に隊商長から一言があった。
「ふあ~、あそこきっついんだよな」
「肉出してくれよ、力が出ねぇだろ!」
周囲の男達が口々に文句を言うのを聞きながら、ライカは難所について考えていた。
「ゾイバックさん、難所ってどんな所ですか?」
「ああ、断裂の谷のこったな。なんてったってこの西方が辺境と言われてる元がこの谷と荒野のせいなんだが、まぁ橋が出来たから、昔よりは楽になったんだけどな。何にせよ新入りにはキツイだろうよ。せいぜい覚悟するこったな」
「橋がある谷か」
ライカは本でその概念を見たことはあっても橋という物を実際に見たことがない。
川の両端に板を渡して水に入らずに反対側へと渡れるようにした建造物らしく、本に載っていた見取り図を見た限りだと単純な造りに思えた。
街の水路に渡し板が掛けられているが、あれの大規模な物なんだろうとなんとなく見当は付く。
「谷があるなら周り込めばいいんじゃないか?どっか渡れる所があるもんだろ?」
サッズが胡散臭そうに鼻に皺を寄せた。
人間のちまちました建造物というものが気に食わないのかもしれない。
「橋が出来る前はそうしてたんだが、まずもって三日は余分に掛かる上に他国が占めてる土地を通らなきゃならんのよ。見つかっても商人だし、国同士の関係も悪くはねえからいきなり攻撃されたりゃしないだろうが、他国の軍ってのはありゃ合法的な山賊みたいなもんでな、荷の半分ぐらいを掻っ攫いやがるし、ろくなこたぁねぇんだ」
「他所の国ですか?」
「ああ、お前らなんか若えから知らないだろうが、他所の国は随分なげぇ戦をやってたせいでな、すっかり飢え乾いちまってるのさ。うちの国は豊かだからとにかく何かと難癖付けて搾り取ろうと必死でな。特に辺境じゃ、無法に近い有様だ。恐ろしくて近寄りたくもないね」
「戦については聞いてます。俺の両親もそれで死んだので」
直接戦で死んだ訳ではないが、ライカの母が最も憎んでいたのは戦だった。
顔を焼くことまでしなければ女はまともに生きていけなかった、平穏な暮らしを許さなかった戦いの世界。
『なによりあの人はあの場所で生きていけない人だったの』
父を語る時、必ずライカの母はそう言ったものだ。
逃げ出さなくてもいつか父はあの世界に殺されただろう。と、ライカの母は思っていたのだ。
「あ~、そっか。あの街はそういう連中が多いらしいもんな。俺は話に聞いてるだけだからわからんが、戦ってのは手柄を立てれば貴族になれるっていうだろ。そういうのには憧れもするんだがな。ほれ、あの街の領主様がそうだろ?元々は農民の出だそうじゃないか。英雄譚の世界が手の届く場所にあったんだぜ?男なら羨ましいと思うだろ」
心から羨ましそうに語る言葉に、ライカは人それぞれの受け取り方があるんだなと感じた。
確かにより良く生きたいという欲があるなら身分が動かしようがない平穏な世界ではなく、もしかしたら偉くなれるかもしれない変動の世界を望むこともおかしくはないのかもしれない。
だが、ライカ自身は身分の差というものが良くわからないこともあって、戦に憧れる気持ちは無かった。
それに何より、さんざん経験者に聞かされたような、身近な人が常に危険に陥るような状況がずっと続くという暮らしに対しては忌避する気持ちが強い。
もちろんそこには、ずっと寝たきりで、命をすり減らしながらも自分を案じ続けた母の気持ちへの共感が、ライカの心の奥底にあるのは間違いないだろう。
ついでに言えば、ライカには領主様が領主であることで本来の奔放さを制限されて苦労しているように思えて、高い身分というものがあまり羨ましいとは思えないということもあった。
「偉くなるのが良いことかどうか良くわからないです」
「ああ?お前それでも男か?男なら国の主になって自分の思い通りに世界を動かしてみたいって思うもんだろ?」
そのゾイバックの煽るような言葉に、
「単純馬鹿じゃないからだろ」
サッズがそう水を差す。
「ん?なんだ、喧嘩売ってるんか?坊主。てめぇ、どうも気になってたんだが、貴族落ちだろ?」
サッズの冷淡な言いように苛立ったらしいゾイバックは、勢いのままに突っ掛かった。
ライカは溜め息を吐いたが、仕方なく割って入ることにする。
「貴族落ちってどういうことですか?」
「戦争で負けて身分を失った貴族のことよ。それこそごろごろいやがるんだが、揃いも揃って傲慢でお上品で他人を見下しやがるのさ。身分が無くなったらもう他に何もねぇくせに、それがわからねぇ馬鹿ばっかりさ」
「そんな馬鹿と一緒にするな」
「偉そうなんだよ、てめぇは!」
「ほら、ショソルさんが睨んでますよ。怒られますよ」
実際、騒々しい後方の様子を見に来たらしい隊商長が冷ややかな目つきで彼等を窺っていた。
荒れ野に強い、毛に覆われた太い足を持つ愛馬を巧みに操って、馬車を避けて後方に周り込んで来る。
「余力を残せと言ったはずだが?」
馬上から睨まれるのは高さのせいもあって威圧感があった。
ゾイバックは肩を竦めるとライカ達から離れて歩き出す。
「この先、霧が出るぞ」
サッズは馬上から睨み付ける相手にケロリとそう告げた。
「この時期朝方の霧は馴染みのもんだ。言われるまでもない。だがそうか、お前、天気を読めるんだったな」
「ああ、聞かれれば答えるぞ」
「ふん、雪でも降る時は言ってくれ」
そう言って、自分の言葉にウケたのか、大声で笑うと、馬の尻を鞭で叩いて方向を変え、前方へと戻って行く。
「信用されてないみたいだね」
「むしろ信用されてたらびっくりしただろうな」
悪びれないサッズに、ライカは再び溜め息を零すと、手が荷物で塞がっているのでしょうがなく肩でサッズの背を押した。
「なんだ?」
「何喧嘩売ってるんだよ?」
「侮られるのは我慢がならん」
「器が小さいんだ」
「お前、しまいには銜えて雷雲の中を突っ切ってやるぞ」
「ほんっとに、器が、小さい、よね」
一言一言区切って言ってみせるライカをサッズはジロリと睨むと、
『後で覚えてろ、頬が腫れ上がる程抓ってやるからな』
意識に刻むように明確な意思をぶつけて来た。
『そっか、せっかく今夜はお茶を淹れてあげようと思ってたのに。俺一人で楽しむことにする。さっき銀鈴草見つけて花を摘んでおいたのもあるんだけど』
『くっ、いつの間に』
『サッズって周りを見回すってことをしないから足元に香草があっても気づかないんだよね。可哀想だな』
ライカの眼前に手が出てくる。
「花は今寄越せ」
「仕舞いこんだから無理。それより、『使命』を忘れた訳じゃないよね?」
「忘れられるもんじゃないだろ?そのせいで聞きたくもない人間の言葉を聞かなきゃならんのだろうが」
「イライラしない。休憩入ったら花あげるから」
「わかった」
チッ、と舌打ちを人間らしくしてみせたサッズに、ライカは少しだけ心配気な顔をした。
使命は強く竜を縛る。
ああは言ったが、『人間を理解しようとする』という使命のせいでサッズが嫌な思いをしているのなら、ライカとしては自分の責任でもあるので気になっていたのだ。
「わかってるからそんな顔をするな。お前が何か悪い訳じゃねぇよ」
サッズはばつの悪そうな顔になると、話を逸らすように顔を前方に向ける。
「ほら、霧が出てきたぞ。足元に気をつけろよ」
「まだ街道がちゃんとしてるから大丈夫だよ。ありがとう」
どうやらライカに構ってる内に落ち着いたらしいサッズに笑顔を見せて、ライカも前方を見た。
白いもやが隊列を覆い、馬の不安そうないななきが白く隠れた前方から響いて来ている。
「吹き飛ばしたら駄目だよな?」
「不自然すぎるからね」
別に目視しなくてもサッズはもちろんのこと、ライカにも周囲の様子はなんとなく認識出来るので霧が出ても彼らにはさほどの不安はない。
ここが道の無い場所なら隊商の迷走が危ぶまれるが、まだまだ街道上なのでその心配もなかった。
そんな風に安心感を与えてくれる道を、自然にではなく積極的に拠点と拠点の間に造るという人間の発想に、ライカは改めて関心したのである。
ギシギシという車体の立てる軋み音と、それを掻き消す程の車輪の響き。
すっかり耳に慣れたその騒音と共に隊商の一行は単調にひたすら進む。
ゾイバックと諍いを起こしたせいか、すっかり他の荷負い仲間も寄って来なくなり、なんとなく人の気配を遠くに感じながら、ライカはサッズとの輪を繋げて更に感覚を伸ばした。
夜行性の獣のまどろみと、鳥達の慌しいさえずり、木々の悠久の呟きがゆっくりと時を回す。
その伸ばされた意識が、切断された大地に触れた。
「谷?」
「だな。かなり深い」
風が唸りを上げて吹き上げている。
その周辺には霧など存在しない。
発生してもすぐに掻き消されてしまうのだろう。
見上げても見えないが、太陽は真上よりまだやや低い。
谷に着く前に休憩が入るな。と、ライカは予想し、すぐにそれは実現した。
「お前ら!そろそろ断裂の谷だ!先に一度休憩するぞ!暗くなる前に越えるからなぁ!」
へい、だの、おうだのといった返事がまばらに返り、太陽の力で霧も消えた所で、彼等は休憩に入る。
昼の食事の配布は干し果がいくつかと水の補充のみだ。
それを配る列に並んでいると、同じ荷負い仲間の一人、彼等を除けば一番若いマウノが近寄って来た。
「君たち谷越え初めてだろ?かなりキツイから休憩時間はゆっくりしておいた方が良いよ」
「ありがとうございます。そうします」
「ああ、わかった」
ライカとサッズはそう返し、相手をしげしげと見る。
「ああ、ゾイバックさんなら気にしなくていいよ。あの人気分屋だし、すぐに機嫌を直すさ。俺も最初色々苦労したからね。それに」
彼は照れくさそうに笑った。
「俺、下に弟達がいるから君たちが気になってさ」
「そうなんですか」
「うち兄弟が多くて十二人いるんだ。だからある程度デカくなったら働きに出ないと食い扶持を養いきれないんだ。弟達もいつか働きに出るはずだと思うと、ね」
「そりゃまた子沢山だな」
子供が滅多に産まれない種族であるサッズは心から驚いて声を上げる。
「凄いよね。でも、農家は子沢山な家が結構多いんだよ。みんなそう豊かじゃないからどうしても若い内から働かなきゃならなくなるんだよね」
昨夜は口下手な印象の青年だったが、どうやら普段からそういう訳ではなく単に気後れしていただけだったらしい。
流暢ではないが、朴訥な話し振りは誠実さを感じさせた。
「今日は干し杏なんだよね。楽しみだな」
「ふ~ん、美味いのか?」
「うん、風味が良いんだ。甘ずっぱい香りがたまらないよ」
「ほう」
思いっきりサッズが食いつく。
甘い香りというのは滅多に味わえない贅沢品のようなものだ。好みは色々あるが、基本的に竜族は花と果実の香りが好きであり、果実酒を作ったりもする。
ライカはその様子に笑いを洩らしながらも、自分自身も初めて口にするそれを楽しみにするのだった。
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