第32話 コタローの、本質
「あー、今日は盛りだくさんだったなー」
風呂から上がって、布団に潜り込む。今日はもう一つ楽しみが残っている。中野社長お勧めの‘自転車に乗るわたし’。
実務書とか資格関係の本ばっかり読んでて小説とかエッセーとかあまり読まなかったからなー。久しぶりだな、なんか。明日は日曜日だし、ゆっくり読書としよう。さて、と
・・・・
この本を手にした貴方へ。まずは‘あとがき’からお読みください。
・・・・・・・・・
「まえがきでいきなり‘あとがき’を読めって、どういうことかな?」
言われるままにページをだーっと繰る。
・・・・・・
あとがき
この本を皆さんが読んでいる時、わたしはもう声が出なくなっているかもしれません。
もしかしたら、私の心臓の筋肉が衰えて、鼓動も止まっているかもしれません。
わたしは、筋肉が段々と動かなくなっていく病気です。
わたしがこの病気だと分かったのは3年前のこと。まだ看護師として働いている時のことでした。わたしは2人の息子の母親です。当時お兄ちゃんは中1、弟は小4でした。今2人は高校1年生と中学1年生になっています。2人とも運動部に入り、毎日‘腹減ったー’って帰ってきます。わたしは頑張って、‘お・か・え・り’と声を振り絞ります。日に日に喋るのもとても疲れるようになってきました。
‘口述筆記で本を書いてみませんか’というお話をクスノキ出版から頂いて、今こうしておそらく最初で最後となる本を書かせていただいています。私が話す言葉から文字を書き起こしてくださる編集の金谷さんには本当に感謝しています。それと、わたしが本を書こうという後押しとなった、精神科医だった三門先生の美しくも切ない本にも感謝しています。三谷先生の絶筆は、腹腔にあった大きな腫瘍が全身に転移して、ペンも握れなくなり、口述筆記でお書きになられた本です。わたしは看護師の仕事上の必要からその本を読みました。いわば医学的な専門書の類ではあったのですが、そのあとがきがわたしの心を揺さぶりました。死を目前にされた三門先生は、癌になる以前からのご自身の生きる苦悩も、心が疲れて苦しんでいる患者さんの苦闘の姿も、また、ずっと以前に幼くして亡くなられたお子様のことも、真剣な、でも、穏やかな言葉で吐露しておられました。
作家でも、研究者でもない、ただの母親で夫の妻で、そして病を抱える身のわたしが、こうして本を通じて皆さんとのご縁をいただけたのはとても不思議なことです。
‘自転車に乗るわたし’というこの本のタイトルは、ごく自然にわたしの心にふわりと浮かんできました。自転車って、とても可愛らしく、人の人生の傍に寄り添ってくれる乗り物だと思います。父親に手伝ってもらって初めて補助輪なしの自転車に乗れるようになった時のこと。小学校の夏休み、クラスの友達と自転車を連ねて河川敷の花火大会を見に行ったこと。中・高とずっと自転車通学で、テニス部の練習が終わった後、筋肉痛の脚で頑張って家まで帰ったこと、途中の駄菓子屋の前に自転車を止めて、毒々しい色の炭酸飲料をラッパ飲みしたこと。結婚して子供ができてからは、息子たちを前後に乗せて、スーパーに買い物に行ったこと、その時、子供たちと一緒にアニメの歌を歌ったりしたこと・・・・
今、わたし自身はもう自転車に乗ることはできませんが、息子たちが学校から帰ってきて、ガチャン、と家の前に自転車を停める音を聞くと、心が弾みます。
この本に書いたのは、ごく日常の出来事ばかりです。大冒険もありません。
あ、でも、自転車にまつわるエピソードをいくつも書いてますが、その中には‘小冒険’って感じのお話はあります。
退屈しないように、お好きな音楽でも聴きながら読んでいただくといいかもしれません。
喫茶店でぼーっとコーヒーを飲みながら、あるいはおうちで寝そべってお読みになるのも、ありだと思います。
わたしも、そんな愛おしい毎日を、今しばらく大切に過ごしていきたいと思います。
・・・・・・・・
「あ・・・・・」
顔をうずめた枕が涙で濡れてしまった。あとがきを読んだ後、冒頭から読み始め、日付が変わったのも気付かないで布団の中でこの本に没頭してた。読み終わって、また最初から読み直したくなる。
作者は、吉野 陽子さん。吉野さんの文章はとても明るく、心が軽やかになるようなそんなタッチなんだけれども、何でだろう。ふっと切ない気持ちに何度もなった。吉野さんが病気でもう亡くなっておられる、って理由だけじゃないと感じる、その切なさは。
「コタローに教えてあげたいな・・・」
自然とそんな気持ちになった。
‘コタロー、今日買った本、読んだよ。この本と出会えてよかった、って思う、そんな本だった。コタローにも貸してあげるね’
「よし。送信完了。夜中だけど、メールだからいいよね」
ピリン。
「あれ、もう返信?コタローも夜更かしだなー」
‘俺、実はその本、前に読んだんだ。病気の種類は違うけど、吉野さんと俺の母さんがなんだかダブって感じられて辛かった。本を持ってるのが辛いから中野社長にあげたんだ。中野社長はすごくその本が気に入って、店に置くようになった。結構売れてるみたいだよ。まあ、社長の押し売りかもしれないけど。俺がその本持ってたらシズルに貸してやれたんだけどな。ごめんな’
コタロー、こっちこそごめん。わたし、やっぱりコタローのこと、本当はよく分かってない。コタローは、がさつで飄々としてるけど、実はとても繊細で、嘘が嫌いで、多分、やさしさも持ってる。返信しよう。
‘コタロー、ごめん。晴れたら今度こそ自転車に乗ろう’
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