生まれ変わったらヤギになりたい

こまつ

第1話


ふと、ばあちゃんが死んだ日のことを思い出した。気づけば、命日が過ぎてしまっていた。薄情な孫だと思う。


ばあちゃんが死んだ日のことは覚えていない。わたしは家を出てしまっていたし、電話で聞いただけだったと思う。

思い出すのは、葬式の日。この人は幸せな人だったのだな、と思った。


わたしはその日、泣くことはなかった。その日だけじゃなく、ばあちゃんが死んだことで、泣くことはなかった。

薄情だなぁと自分のことを思いつつ、仕方ないことだと思う。身近な誰かの死を必ずしも悼めるわけではない。


ばあちゃんとは、会話らしい会話をした記憶がほとんどない。

物心つく前に、一年ほど事情があり面倒をみてもらっていたようだが、薄ぼんやりとした記憶しかない。

秋田の田舎の出身で、娘であるわたしの母の家に身を預けるまで、そこから出たことのないような人だった。

あまりに訛りがきつくて、標準語で育てられたわたしはばあちゃんの言葉を聞き取ることができなかった。

土地特有の言葉は、異国語と同じようなものだと思う。


長生きで、大往生。とても綺麗な死に顔だった。少し寝てるだけ。そんな感じだった。


娘と息子と、孫に。見送られた彼女は、幸せそうだった。女手一つで育てた子供たちは自立して、それぞれの家庭を持ち、そして、その子供たちも自立し、家庭を持ったり、社会に出て働いている。そして、さらにその子供は大人になるために成長してる途中。

ばあちゃんが生み出した命が続いて、その命に見送られたばあちゃんは、とても綺麗な顔をして横たわっていた。


家庭を持つことをこわい、と思っているわたしには、信じられないことだけど、この人のように生きることが1番の幸せなのではないかと思ってしまった。

命が続いてる。

ばあちゃんの葬式はそんな風に見えた。

ばあちゃんはいなくなったけど、ばあちゃんの命は続いている。いまも。


生きてる時、ばあちゃんのことはちっとも幸せそうに見えなかった。苦労して苦労して、息子に先立たれ、少しボケて、ぼんやりとした人だった。でもきっと、不幸ではなかったのだろう。最後の顔は、そんな顔だった。


薄情な孫はときおり、ばあちゃんのことを思い出す。

異国語を話す彼女の言葉をもう少し聞いておけばよかった、と。後悔の気持ちとともに思い出す。


人が本当に死ぬ時は、みんなの記憶からいなくなったときだ、なんていうけれど。


ばあちゃん。しばらく死ねないね。

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