泥棒はようやく道を定める。
楽勝じゃあなかったことは、いくつかある。
一つ目。次の日の朝のことだ。
「それ、レトルトだけどそんなにうまいか?」
「ええ。この、柔らかい、食感、の、奥にある、おいしさ、うまみ、というのは、こういうこと、なのでしょうか。柔らかくて、すぐ、喉に、流れ込んで、いきそうに、なるんですが、でも、まだ、噛んでいたい。それが、すぐに、無くなって、しまって、少し、もったいない、ような、気持ちに、なりますが、次の一口が、楽しみで」
「お前ほんと飯の話だと饒舌になるなあ」
空はお湯で戻しただけの粥を幸せそうに食べる。昨日は猫美も空を警戒する素振りを見せていたが、この顔にはノックアウトされたようだ。ほわほわした顔で空を眺めて、
「わたしもなんか、食べたくなってくるな」
「あ、まだあるぞ。食うか」
「食う」
なんて、比較的ほのぼのとしたやりとりの後、ちょっと出かけるから留守を頼む、と言って部屋を出ようとした時だ。猫美がまた何かうだうだ言うかな、とは少しだけ予想していたが、案外素直に、
「空さんの看病は任せておけ。ただ、今晩は一度家に帰りたいから、なるべく早めに戻ってきて欲しい」
と言ってくれた。
「ああ。なるべく早く帰る。本当に助かってる。ありがとうな」
礼を言って、部屋を出ようとする。と。
「あの、光平、どこに、いくんですか」
空が不安そうな顔で言う。不安そうな顔か。初めてみたな。成長が早い。
「今日は法務局というところに行ってくる。空の戸籍が作れるかどうか聞いてくるよ」
「それは、遠いですか」
「遠くはない」
「そこは、安全ですか」
「安全も安全だ。問題ない」
「すぐに、帰ってきますか」
「ううむ。昨日の区役所のことを考えると、すぐに、とは言えないなあ。また三時間くらいたらい回しにされる可能性もないではない。それから、まあ、他にやることができるかもしれないし、戻るのは夕方かな」
「……だったら、私も、行きます」
「だめだ。空は、病気だ。寝ていないと」
「それでも、その。行きたいです」
「あのな。楽しいところじゃあないし、別に一人でうまい飯を食おうってんでもないから、心配するな。どうしても行きたければ元気になってから、ま、見学にいってもいいだろうさ。今日は寝てろ」
「でも」
初のわがままだ。成長が早いのはいいことだが、一体どうした。
「まあまあ。空さん、君は今病気で弱っているから、心細いんだろう。大丈夫。真城はちゃんと帰ってくるし、それまでわたしがついている。心配することはない」
猫美が声を掛けてくれる。
「なるほどな。お前、さみしくなったのか」
「そう、なのかもしれません」
「たかだか数日で、物凄い進歩だな。良かったな、地球に降りてこられて」
「そうですね。今までは、ずっとひとりで。でも、光平と、里見と、甲賀と、それから、猫美に会えて。でも、おかしいですね。もし今、ひとりになっても、元に戻るだけなのに、それが、とても、嫌です」
少し言葉が詰まった。そうだよな。ひとりが嫌なのは、ひとりじゃない状態を知っているからだ。今までこいつは、そんなことも知らずに、ひとりぼっちで生きてきたんだ。
「ま、猫美もいるしな。ちゃんと帰ってくる。お前をひとりになんてしないさ。我慢してくれ」
「……はい」
躊躇はあったようだが、ようやくいつもの返事がもらえた。
後ろ髪をひかれる思いで、部屋を後にする。まったく。部屋を出るだけで一仕事って感じだ。先が思いやられる。そう思った。そして、その予感は残念ながら外れなかった。
楽勝じゃあなかった、二つ目。
昨晩の段階で気づいてはいたが、里見からLINEのメッセージが散々入っていて、しかし猫美もああだったから放っておいたところ、齢30にしてはじめて既読無視で怒られた。既読無視で怒られる。噂にだけは聞いたことがあったが。とりあえず謝って、あと診療のために宇宙人を仮に「真城空」と名付けたことを伝える。そしたらすぐに着信が入った。
「おう、昨日は悪かった。今出先だから、今日の夜にでもホテルで会おう」
「あのさ。宇宙人ちゃん、ううん、空ちゃんか。具合悪くなったの?」
「そうだ。良く考えたら免疫とかがないんだよ、あいつは。危ないところだったが、ひとまず入院は避けられた。今はそれなりに調子が良さそうだ。たぶん、具合悪いのにそれを言ってくれないから、気付かず連れまわしてしまったんだな。以後、気を付ける」
里見のことだから、監督不行き届きだ、死んで詫びろくらい喚かれるかと思い、少しスマホを耳から話して、覚悟を決める。ところが、返ってきたのは沈んだ声だった。
「あたしの、せいかな」
「はあ?」
聞けば、下着の時だの、毛の処理の時だのに、裸でしばらく遊んでいたことを後悔しているようだ。
「なんだ、その。お前が殊勝にしていると調子が狂うし、たぶん関係ないよ。今は回復しているし、大丈夫だ。ああいうのも重要な体験だろう。すぐに、とはいかないが、また、遊んでやってくれ」
「うん。でも、ごめんね、って、空ちゃんに言っておいて」
分かったよ。反省している里見の声を聞いたら、いや、もっと早く病気の可能性に思い至るべきだった、なんて思って、少し反省してしまう。以後、気を付けよう。
三つ目。
スムースにことが進むとは思っていなかったが、法務局のけんもほろろ、といった対応にはさすがにうんざりした。何しろ、一回の相談時間が20分と決まっているらしく、それはまあ、そういうものだろうなという気もするが、20分経ったらたとえ待っている客がいなくても一旦話が打ち切られる。
それで、一度待合室というか、座席のところまで引き返して、受付カードを受け取って、数分待ってまた呼び出される。
「これ、意味なくないですか」
さすがに聞いたが、事務員の女性は、
「あのね。法律に関するできごとは、きちんと記録して整理しなければならないの。だから、20分が済んだら、私はきちんとお話を整理して記録しています。そういう手続きを守れない方は、法律も守れないと見做さざるを得ないんですよね」
と冷たく言い放つ。
「じゃあ、その、後ろにほかのお客さんがいりゃあ確かに待ちますけどね。誰もいないときは、記録が終わるまで待ってますから。一旦引き下がらなくても良くないですか」
「ですから。これはそういう手続き、決まりなんですね。この手続きを守れない方は」
「分かりました分かりました。決まりなんですね。それは守ります。たとえ車が通っていなくても、赤信号で道路を渡ってはいけないみたいなことですよね。ようっく分かりました」
あるいは、人の物を盗んではいけない、みたいなことだ。そう。ルールを守るのは、大切なことだ。しかしねえ。こんな話をしているうちに、20分が経過したりするので、かなり嫌になってしまう。
長い時間を費やして分かったことは、最低でも母子関係、ようするに、空の母親が誰かということを、はっきりさせなければならないということ。それがなくても戸籍が作成できるケースもないではないが、まあ、ないと思った方がいいということ。
このこと自体は道理が通っていなくもないな、と思ったのは、結局のところ気軽に日本国籍を取得できるシステムができたら悪用はいくらでもできちゃうわけで、それは確かにまずかろう。母子関係をはっきりさせないといけないのは、日本は血統主義の国だからだそうで、これは別に血筋が良い奴は偉いとかそういう意味ではなくて、日本人の子を日本人と認めるという制度のことだ。
あとで知ったがアメリカなんかは出生地主義で、アメリカで生まれたことがはっきりしていればアメリカ国籍を取得できるらしいが、その場合だって誰が産んだかをはっきりさせたうえでしかもアメリカで確かに産んだということを証明しなければいけないわけだから、まあそれよりはマシとも言える。
空が地球で暮らすために、ようするに、空が地球人であることを証明するためには、空を産んだ誰かがいることを証明しなければならない。法律に詳しければ、こんなに時間と手間を掛けずに分かったことかもしれないが、ようやくやることが分かった。結局のところ、新聞作戦も、悪い手ではなかった。効果はなかったというだけで。分かったのはいいが、これは、どうしたらいいのか。かなり難儀な道のりの予感がした。
結局母子関係を確証するといったところで、何をもって確証とするかもわからず、もう詳しそうな弁護士に頼ることにした。したが、これも一発ではい引き受けますよという話にはならず、現時点では債務整理とか離婚後の財産権の相談とか、そういう問題の争点がはっきりしているものしか引き受けていませんという事務所が5軒、とりあえず来て話を聞きますよ(有料で)と言われて尋ねたが、色々理由をつけて断られたのが3軒、家族法に詳しい先生を紹介しますよと言ってくれたのが最後の一軒で、ようやくたどり着いたのが
長内はとろんと眠そうな目をした乳のでかい女で、ほんと多分全国各地から女性が石を持って攻めかかってくるのを覚悟の上で言うが、あれ、これあんま信用できないんじゃない、というのが第一印象だった。もはや怒るなとは言わない。怒られて当然の発言だと思う。ただ、もう一日あっちゃこっちゃ電話を掛けたり実際に尋ねたりして、しんどかったのだ。だからつい、そう思ってしまった。許してくれ、とも言わないが、石を投げることは勘弁してくれるとうれしい。しかし実際には、幸いなことに長内はまともに話が通じるタイプだった。この話が通じる人間がまともなのか、と言われると微妙なところではあるが。
「なるほどぉ。細かいところを抜きにして言えばぁ、地球で生まれた女の子が、出生届を出されたかどうかも分からないけど、十何年後に戸籍がないことに気づいたんですねぇ。それで、その時にはお母さんがいなくって、っていうことですねぇ」
「そうなりますね」
「ううん、そうですかぁ。やっぱり一番早いのは母子関係を確定させることですけどねぇ」
「その確定っていうのは、例えば」
「ううん。まあ確実に母親だ、という人が見つかったとすればですねぇ、正直どうにでもなりますよぉ。出生届出してれば、ほぼ一発ですしぃ、出してなくてもそうですねぇ、DNA鑑定は法的に証拠能力がありますからぁ、たぶんそれでいけると思います。父親でもいいんですけどねぇ、直接産んでないから、確実に、とは言えないですよねぇ」
「その、例えば、養子に取るとか、そういうのでなんとかってのはダメなわけですか」
「そういうのは、戸籍が確立してからになりますねぇ。ちなみにですが、仮に真城さんが父親役をやるとしたらぁ、天城さんが家庭裁判所に出頭せず、しかも、DNA鑑定も拒んでいる、という状況が必要なのでぇ、正直不自然ですよねぇ。もう、交番でも相談されて調書もとられちゃってますからねぇ。あと、親の不在による就籍ってのもあるんですけどぉ、親が確かに存在していたけど、今はいない、ということを証明しなければいけないので、結局親が誰か、ということは分からないといけないですねぇ。良く分かんないからオッケー、というオールマイティのカードではないです。まあ、ほんとにほんとの最後の手段としては、もう亡くなっている方を親ということにして、ここ宛に公示送達を出すという手もなくはないですけどぉ、これが通るかと言われるとやったことないので、ちょっと自信ないですねぇ」
すげえこう、ざっくばらんに法律の悪用を教えてもらっている気がするが、まあ正攻法で行くのが良かろう。なるほどなあ。母親探し、か。
「まあ、分かりました。ありがとうございます。じゃあその、母親が見つかった場合、弁護というか、弁論と言うかは、引き受けていただけますか?」
「ええ。そっちだったら正直、ちょろい方の仕事ですので、料金はまけときますよぉ」
ちょろいんだ。こっちはこれだけ悩まされているというのに、すげえな。先行きは暗い。けど、光がないわけではない。やるだけのことをやってみるしかないか。
ホテルに戻って、猫美をおんぶするしないで一揉めしてからなんとか送り返した後、やってきた里見と甲賀に昨日の非礼をわびて、結局母親を探さなくてはならないという結論を伝える。すぐには良い知恵は浮かばず、三人寄ればなんとやらというが、とりあえず各自の宿題にしようということで、解散する。
そして、夜中にひとりで勝手に決意をする。空は、命を盗まれかけて、それから、かなり長い間、まともな地球人ができるようなことを何もかも盗まれて、まともな服も、免疫も、故郷も、名前も、もっと綺麗な空を見たことも、何もなかった。だったら、それを取り返してやろうじゃないか。これまでできなかったことは、これからやればいい。そうだろう。
だから、そういうことは依頼が終わったら勝手にやってもらえばいいのであって、そのときにはもう関わることなんてないんだって、ということに気づいたのは眠りに落ちる直前だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます