十八

「先生、早退したいです」

 授業中、俺は掠れた声で言った。元々静かだった教室が、これ以上無いくらいに静まり返る。

 話を中断された国語の先生は、眉根を寄せた。

「具合が悪いのか?」

「はい」

「……まずは、保健室に行きなさい。保健委員は――」

「大丈夫です。一人で、行きます」

 俺はのろのろと立ち上がった。

「……大丈夫?」

 隣の席の女子が、俺の顔を覗き込んだ。俺は白けた視界で視線を彷徨わせながら、愛想笑いを浮かべる。

「大丈夫」

「顔色、すごく悪い。お大事にね」

 俺はへら、と笑って応えた。力ない足取りで机の隙間を縫って、ドアへ向かう。先生はそのまま授業を続けた。鉛筆の芯の先が紙を滑る音達が戻ってくる。

 シューズの踵が廊下の床にぶつかる度、ぱたん、ぱたん、と音が反響した。のろのろと階段を降りて、一階の奥にある保健室へ向かう。窓の外で、葉末に醒めるような鮮緑を湛えた、桜の木の枝が揺れていた。それをぼんやり眺めたまま、立ち尽くしてしまう。やがて、保健室のドアががらがらと開いた。

「あ、何。用?」

 保健の先生が、さばさばとした調子で俺に言葉を振りかける。俺はのろのろと顔を上げた。先生の眉根が寄せられる。

「顔、青いね。私今からちょっと用があるから、しばらく空けるけど……ベッドで休んでおきなさい」

「先生、俺、早退したいです」

 淡いピンクの口紅。先生は、それをなじませるように唇を僅かに噛んだ。

「……何か、あった?」

 諦めたように溜め息を吐いて、俺を中へ促す。

「先生、用事は?」

「少しはいいのよ。で? 私の記憶が正しけりゃ、君は怪我以外でここに来たことは無いし、そんな弱音を吐いたことも無いよね。担任の後藤先生も仰ってましたよ。赤司って生徒は教師から見ても我慢強いし、他の生徒と違って愚痴を言わないってね。違う?」

「帰りたいんです」

「そう」

 眼を伏せたまま、暗い声で呟く俺に、先生は書類をぽん、と机の上に置いた。

「熱測って。一応ね。よほど具合が悪いんじゃない限り、おいそれと早退はさせられないの――話、聞いてる?」

「はい」

 俺は、綺麗にシーツが整えられた、二台のベッドを見つめていた。淡い期待を持っていたわけじゃないけれど、やっぱりそこに、梓の姿は無い。

「……重症ね」

 熱は、あるはずも無かった。三十六度四分。

「頭痛い?」

 先生の声が、籠って聞こえる。

「多分……」

「そう。じゃあ、頭痛が酷いのね。いいよ、帰ってよし。親御さんに連絡入れる?」

「え?」

 俺は振り返った。

「だから、君は頭痛が酷く、これ以上授業は受けられそうにない。帰っていいよ。寄り道はしないようにね」

 俺は、先生の黒い瞳を見つめた。やがて、緩く首を振る。

「いえ……やっぱり、いいです」

「え? なんで?」

「帰りたいのは本当だけど、俺は、家に帰りたいんじゃなくて……梓に会いにいきたいだけだから」

「梓? ああ……さっき帰った須﨑君ね?」

 先生は苦笑した。

「大丈夫よ、親御さんが迎えにきてくださったもの」

 俺は、唇をがり、と噛んだ。


 ぼんやりした頭で、昼をやり過ごし、放課後になった。部活の先生に「休みたい」と伝えたら、授業中に保健室に行った話が耳に入っていたのか、案外簡単に休むことが出来た。そのまま、帰宅部生の列に混じって、のろのろと坂を下りた。いっそ先生に怒られるのを承知で自転車で来ておけばよかったのかもしれない。梓の家までの道のりが、酷く長く感じる。

 商店街に差し掛かると、街頭音楽に不快な声が混じっていた。何を話しているのかはよく聞こえないけれど、まるで獣のようだ――

 俺ははっとして、上を眺めた。

 声は、ビルの上から落ちてくるようだ。甲高い悲鳴と、獣のような咆哮。商店街の店先で、誰かが、「まったく、あそこはいつも飽きもせずまた喧嘩かね」と呟く。

 ふと視線を落とすと、花壇に溶けたように枯れる小さな花を見つけた。桃色の花だ。見たことはあるような気がしたけれど、花の名前は思い出せなかった。この暑さにやられたのだろうけれど、大きな百合の陰に隠れて、枯れきることも出来ないのかもしれない。

 俺は躊躇い無く、ビルのドアに手をかけ、段差を踏みしめた。ドアを開けると、うわんうわんうわん、と、誰かの叫び声が反響して外に零れ出す。俺は急いでドアを閉めた。鉄筋造りのビルの中で、なんて声を出しているんだろう。頭がおかしくなりそうだ。煩いカラオケ店にいるよりもずっと、耳が潰れそう。

 俺は、足音を忍ばせて、一段一段を踏みしめて上った。二階。ぎゃんぎゃんと喚き散らしている高い声と低い声。時々、細い声が悲鳴を上げるように叫んで、直後に甲高い声が覆い被さった。俺は、三階へ上る途中で立ち止まって、小さく笑った。

 なんだ。こんなもんか。

 憧れていたのが、馬鹿みたい。

 歪む口元を抑えられないまま、俺は三階へ上り切った。

「うるさいうるさいうるさい! 放っておいて!」

「いい加減に言うことを聞きなさい!」

「痛い! 痛い! 痛い! 嫌い!」

「ああ! もう家はだめだ! お終いだ!」

「あなたまで叫んでどうするのよ!」

「嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い! 引っ張らないで! 髪を引っ張らないで!」

 梓の悲鳴と、梓の母親の泣きそうな声と、梓の父親の、投げやりな声。

 梓のお母さんは、本当に泣いているんじゃないだろうかと思った。親不孝な子供だな、梓。ねえ、梓。

 俺のことはどう? 嫌い?

 俺は笑みを深めて、チャイムを鳴らす。

 音は、三人の声にかき消されてしまう。俺は、ゆっくりと指を引いて、もう一度押した。

 梓の母親の声だけが、はっとしたように消えた。パタパタと足音が移動する。父親は尚もわあわあと叫んでいる。梓は男の癖に泣き喚いていた。何がどうしてこうなったんだろう。梓は具合悪くて、早退したはずなのに。「静かにして!」――甲高い声が響く。

『はい』

 梓の母親の、いつもと変わらない、穏やかな声が漏れた。

「こんにちは。赤司です」

 その声に、梓の声が消えて、やがて父親も大人しくなった。

『……今日は、何か用事?』

 笑っているようで固い声が、ビルの壁に反響する。

「梓君に、話があって。今日じゃないとだめなんで。間に合わないので」

 ガチャ。

 音がして、ドアが開いた。

 涙でべとべとになった酷い顔で、梓が俺を見つめている。鼻が詰まっているのか、口ですう、はあ、と苦しげに息をしていた。梓はぐすっと耳に不快な音を立てて、鼻をすする。

「梓!」

 梓の母親の声が追いかけてくる。

「出かけてくる」

 梓は裸足で外に出ようとした。俺は梓の肩を押し留めた。梓が、苛立ったような眼差して俺を見る。俺は緩く頭を振った。

「靴くらい、履いてけって」

「……うん」

 梓は、目を伏せる。

「梓! 逃げなさんな!」

 母親の声が追いかけて来る。

「出かける。出かけるの。僕は出かける。出かけるんだから」

 梓は壊れた機械のように金切り声をあげた。

 俺は梓を押さえて、ドアの隙間に向かって徐ろに口を開いた。

「いってきます」

 俺の声に、梓が、驚愕したように目を見開いた。

「いってきます」

 俺は、今度は梓の目を見て、繰り返す。

 辺りが、しん、と静まり返った。ちゃんちゃらおかしい話だ。俺こそが、今日、行ってきますも言わないで逃げるように家を出たのに。俺は苦い気持ちを噛み潰すように、歯を噛みしめて、笑った。

 梓は腕で目を擦った。その腕に、引っかき傷が刻まれている。梓は振り返って、大人しく靴を履いた。そのまま、暗い眼差しを上げて、両親を見つめた。

「……いってきます」

 ふわり、と梓の指先が、俺の手に触れた。俺は、花束を抱えるようにその手をとった。梓の体が、ドアの隙間をすり抜ける。

 がちゃり、と重い音がして、焦げ茶色のドアが閉まった。梓はそのまま、足を踏み出そうとして、細い足をガクガクと震わせ、階段の段差に座り込んでしまった。嗚咽を漏らしながら、真っ赤に腫れた手で目をぐりぐりと擦る。頬の皮が、爪の痕形に薄く剥がれていた。俺はそれをそっと撫でた。「痛い……触らないで……」――梓が弱々しく呟く。

「ほら、ここだと声が響いちゃうだろ」

 俺は梓の腕を引いた。

 梓は嗚咽を堪えるように肩を震わせていた。焦げ茶色のドアの向こうから、不快なひそひそ声が聞こえてくる。梓の名前が漏れ聞こえる度、梓の喉から、細い音が漏れた。

 俺がもう一度梓の手首を握って引くと、今度は大人しく立ち上がった。二人で、ゆっくりと階段を降りた。ビル特有の、湿気の篭った匂いが鼻をつく。梓は鼻をぐすぐすと鳴らし続けた。やがて、一階のドアの前に来て、梓はそっと俺の服の裾を引いた。

「なんの……用だったの」

「は?」

 俺は、ドアノブに手をかけたまま、振り返った。

 鏡面シート越しに差し込む光に目を細めて、梓は俺を見つめた。

「何か、用があって来たんだろ」

「別に? ただ、話したかっただけ」

 梓は目を瞬いた。上の階で、バタン、とドアが開く音がして、足音が降りてきた。梓の肩がびくりと跳ねる。俺はドアを引いて、梓の手を引いた。梓は大人しく、外に出た。

「なあ、梓」

「……何」

 梓は暗い声で応える。俯く梓を暫く眺めて、俺は花壇に視線を移した。

「あれ、なんて花? 枯れかけてるやつ」

「えっ?」

 梓は、目を瞬いた。俺は、溶けるように枯れているピンクの花を指差した。

「え……」

 梓は身を屈めて、百合の花をそっと指で押し退けた。やがて、僅かに目が見開かれる。

「あれ、これ、勿忘草じゃないかな。普通夏には枯れるんだけど……まだ残ってたんだ」

「へえ。勿忘草って青いイメージあったけど」

「園芸種にはピンクのものもあるんじゃなかったっけ……うろ覚えだけど」

 梓は静かな声で言った。

「そっか……まだ残ってたんだね」

「もう、ほとんど枯れてるじゃん」

「そうだね。本来は、夏前に枯れて、秋にまた種を植え直さなきゃいけないんだ」

 梓は弱々しく笑った。

「ふーん」

 俺は梓の手を引いて、車道を横切った。梓はなされるがままに、力なく俺についてくる。俺は花屋の玄関先で、ラックに並べられた種を眺めた。

「花屋に、何の用なのさ……」

 梓は戸惑うように俺に声をかける。

「んー……あ、あった」

 俺は、種の袋を二つ掴んで、レジに向かった。梓は外で、立ち尽くしている。

「……勿忘草の種なんか買って、どうすんの」

 ビニール袋を下げて戻ってきた俺に、梓は眉根を寄せた。

「蒔こうぜ」

 俺は笑った。

「……どこに」

「どこでもいいよ」

 俺はビニール袋を梓に渡した。梓は幼子みたいに、それを両手でぐしゃりと握った。

「とりあえず、場所変えようぜ」

 俺が言うと、梓はこくりと頷いた。



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