十七

 梓から、激流のような心情を吐露されて、俺は梓に大事な話を伝えることができなかった。

 お前の絵が、焼けてしまったってよ。

 でも、いいんだ。別に。

 いいんだ。俺は覚えてるから。お前が描いてくれた気持ちも、苦しんだ過程も、全部覚えてるから。

 いいんだって。

 伝えたかったのに、声にならなかった。

 校門を通り過ぎて、ようやく思い出したかのように、人目を気にしたのか、梓が俺の手首から手を放した。

 少しだけ汗の滲んだ手首を、俺はそっと撫でた。

 濁流のように、生徒たちが流れ込んでくる。

 言わなきゃ。誰かがあいつに言ってしまう前に。俺が伝えなきゃ。それが、精一杯の誠意だから。

 学校の玄関を通り過ぎる。下駄箱の前で、梓が自分の場所に靴を入れて、シューズに履き替えるのを黙って見ていた。梓が、微動だにしない俺を見つめて不思議そうに首を傾げる。

「梓――」

 俺がようやく口を開いた時だった。

「おはよー、赤司、須﨑君。あ、そうだ、聞いた? 崎方美術館焼けたってよ」

 忙しなく靴箱の扉を開いて、隣のクラスの男子が能天気な声をかけてきた。

 体中がかっと燃えるように熱くなる。俺は、自分でも気が付かないうちに、やつの胸ぐらを掴んでいた。

「なんて……?」

 一拍置いて、梓の、暗い声が響いた。

 背筋が泡立った。騒がしい玄関の空気が、ふわりと巻き上がって、落ちる。

 異様な空気に、他の生徒達も俺達を見つめた。

 梓は、ぎぎ、と不自然に首を傾けた。

「なんて、言ったの……」

 その青白い唇から洩れる声は、酷く弱々しかった。

「え、あの、美術館がさ、燃えたって……」

 腕の向こう側で、声が漏れた。俺は力なく手を放した。俺の隣で、けほけほ、と咳込む音が響く。

「あっ、そうなんだよ須﨑くん! 焼けちゃったって! ねえ、大丈夫?」

 女子達が駆け寄ってくる。やめてくれ。

 俺は頭を抱えた。

 やめてくれ、そんな黄色い声で、なんでもないことを話すみたいに、言わないで。

 心臓が、ばくばく、ばくばくばく、と鼓動して、鳴り止まない。

 うわんうわんうわん、と、サイレンが重なるみたいに声が膨らむ。梓の声が聞こえない。梓の顔が見えない。目の前が真っ白だ。歯ががちがちと音を立てた。俺が言えばよかったんだ。俺が言わなくちゃいけなかったのに。

「うあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」


 耳の裏側をびりびりと引き裂くような咆哮。


 気が狂いそうになった俺の喉から、それは漏れたのだろうか。俺は呆然としながら、自分の喉元を手で覆った。けれど、俺の喉は震えていなかった。誰かの悲鳴や、泣き声が重なって、波になる。うわんうわん。うわんうわんうわん。

 揺らめく視線をあげると、女子達が泣いていた。その中心で、梓が目を見開いて、頭を抱えて、蹲って――


 叫び続けていた。喉が潰れてしまうんじゃないだろうか。そのまま息絶えてしまいそうな、断末魔。


 女子達は、その異様さが怖くて泣いたのだと、俺はぼんやり考えた。梓の声が、頭蓋骨を釘で打ちつけるみたいにがんがんと響き渡る。体に力が入らなかった。俺はその場で崩れて、膝をついた。

 ばたばた、と騒々しい足音が沢山近づいてくる。けれどそれさえも、梓の声をかき消すには足りない。

 梓は尚も叫んでいた。やがて真っ青になったその唇が、がちがちと震えだす。俺は腕を伸ばそうとして、指先が酷く冷たいことに気付いた。爪の色が、紫色に染まっている。

「須﨑! 須﨑!」

 先生達が数人駆け寄って、梓の肩を揺さぶった。誰かが呼んできたのだろう。それとも、職員室は一階だから、聞こえて駆け付けたんだろうか。どうでもいい。そんなことは、どうでもいいんだ。梓の頭がぐらぐらと、首の座らない赤子のように揺れている。危ない。危ないよ、先生……。俺の指先が、ようやく梓に届いた。そのまま、梓の頬をそっと爪で引っ掻く。いつも絵の具で汚れる肌に、白い線の痕が残る。

 梓。

「触らないで……ください」

 俺はふらふらと立ち上がって、先生達の手を力なく払いのけた。

「うあああああ……、う、あ、う」

 梓の呼吸が、途切れて、震える。

「保健室、は、俺が、連れて行く、ので」

「……赤司、お前も顔が蒼いぞ」

「いいんです。気にしないで」

 俺は梓の手首を握って、引き上げた。

 梓は、焦点の合わない目で俺を見上げた。


 そのまま、崩れるように寄りかかってきた梓を、俺は支えきれなかった。

 結局、二人で先生達に運ばれた。

 梓は、気絶したかのように眠ってしまった。先生が険しい顔で電話をかけていた。親が呼ばれてしまうのかもしれない。普通に考えなくても、梓の言動は異常だったから。俺は、いやだ、いやだ、と駄々を捏ねるようにただ首を降り続けた。けれど、俺はそのまま教室に引きずられて行った。授業なんて、頭に入るわけがないのに。遅くなったホームルームで、先生が事務的な口調で梓は早退したと言った。絶望で、目の前が真っ暗になった。


 ああ、梓は、この闇を何度も見てきたのだ。

 俺はようやく、梓と同じ場所に立てたのだ。


 梓、ようやく、見つけた。

 お前の絵を見ても、見つからなかった言葉が、やっと見つかったよ。



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