第四章
レノの家に着くと、半分近く入っている水瓶に、拓真は桶の水を移した。そして、少し残った桶の水を、自分の頭の上にざっとかける。水浸しになった拓真の顔をあっけにとられて、玲が見ていると、
「たくさん歩いてきたら、暑くなるから、僕はいつもこうしてる。」
と、拓真は笑った。
「髪も服もびしゃびしゃだよ?」
「大丈夫、すぐ乾く。」
濡れたまま、拓真は家の中に入った。なにか焼けるようなにおいがしている。レノの母がかまどの中から何か出した。大きな葉でくるまれた芋だった。包みはいくつかある。
朝は沸かしたコーヒーのような飲み物も出された。缶詰の肉もある。中ぐらいの魚が丸揚げにしてある。ゆでたかぼちゃにココナツミルクと塩がかけてある。バナナもある。
「朝からすごいご馳走だね。」
玲は感心する。
「食べるものは豊富だからね。缶詰とコーヒーぐらいじゃないかな?買ってるの。夕方には僕が、魚が釣れたら、刺身を食べさせてあげるよ。醤油はないけどね。」
拓真はにっこりとする。作られた料理は相当な量だから、当然、食べきれない。子どもたちは心ゆくまで食べた後は学校に行く支度を始める。教科書やノートなどは、カバンに入れず、ゴムバンドで括っていくようだ。子どもたちは器用に本の類をまとめて結わえ、家から飛び出していった。
玲も食事を終えた。ずいぶん残っている。拓真はそのうちの残った芋とバナナを、昼食にと言って、新しいバナナの葉でくるんで、器用に肩から下げた。
「僕は工場に行ってくる。玲さんはお母さんの手伝い、してきなよ。言葉がわからなくて大変だろうけど、まあ、がんばって。」
「うん、大丈夫、楽しみだよ。」
心細い気持ちを隠して、玲はにっこりと拓真を送り出した。
レノの母に連れられて畑にゆく。
ヤツデのような葉をした低木がたくさん植えられている。そのうちの一つを、小さな木の鍬のようなものを手渡されて、レノの母に掘るように手真似で言われ、玲は木の根元を掘り返す。
しばらくすると、芋に鍬が当たった。全体的に掘り返して、木ごと引っ張るように、また手真似で言われるので、そうすると、木の根にくっついて、タコの足のように広がった芋が現れた。
布の袋に、それを折取って入れろ、と見本を示すようにレノの母に言われ、言われるがまま、玲は芋を折取り、袋に入れ始めた。今抜いた木のところに、レノの母は折取った茎を差し込んでいる。そうすると、また芋ができるのか、と作業をしながらなんとなく横目で眺めていた。
さつまいもや、サトイモに似た芋も収穫する。バナナや見たことのないフルーツも収穫する。畑と森の境目にはココヤシが植えてあり、高いところにたわわに実が実っている。それを見上げて、「あれはソロファに頼まないと取れない。」というようなことをレノの母は言っているようだ。
すっかり重くなった袋を下げて、玲はレノの母の後についていった。手も服も泥だらけだ。あまり広いとも言えない畑だが、作物は豊かに実り、どこからどこまでがレノの家のものかも玲はわからないが、畑にぽつぽつと来ている人達は、そんなことも気に留めている様子でもない。
「食べるには困らない」と言っていた、拓真の言葉を思い出す。鷹揚な島の気質として、豊富にある食べ物を分け与えることは、苦でもなんでもないのだろう。重い袋を下げたまま、村へ帰ってくると、レノの母に井戸に連れて行かれた。ここで作物の泥を落とすらしい。井戸には洗い場が広く取られていて、そこで洗濯をしている島の人もいる。玲も、明日にはここで洗濯をしてみようと思った。洗い場で、芋の泥を洗い落とし、袋の泥を払って、再び芋を袋に詰める。そうやって家に帰ってきた。
時計を見ると時刻はそろそろ昼ごろだった。朝、たくさん食べたので、まだおなかは空かない。朝、調理した料理の残りが、木のテーブルの上に乗せられていたが、レノの母も手に取る様子はない。
拓真のところへ行ってくる、と伝えてみる。なんとなく伝わったようで、レノの母笑顔で送り出してくれた。今収穫したばかりのバナナを何本か手に押し付けてくるので、玲はありがたく受け取って、玲は昨日来た桟橋の方へゆっくりと歩いて行った。
太陽が頭の真上に来ていて、この上なく暑い。部屋から帽子を取ってこようか、と思ったが、この島の人はあまり帽子をかぶらない文化のようで、一人だけかぶるのはためらわれて、玲はそのまま出発した。
一人で歩く長い道のりの道中、肩から掛けたタオルで汗を拭きとりながら、朝、沸かした水を入れた水筒で時々水分補給しつつ、玲は赤土の道を進んだ。
やがて、コプラ工場の大きな屋根が見えてきた。ろくろを横にしたような廻す機械の前で、拓真が座っているのが見えた。
拓真の手に取られたココナツは、見る見るうちに削られてゆき、下に白い粉が溜まっていく。殻を放り出した拓真は、また新しいココナツを手に取る。轟音と共にまたもココナツが削られてゆき、白い粉が飛び散る。削る機械の内部に溜まった粉も下の容器に落として、それを大きなバケツに入れ、また新しいココナツを手に取ったところで、拓真は玲に気がついた。
「あ、玲さん、もう来たんだ。」
「うん、邪魔じゃなきゃ、ここで見てていい?」
「いいよ。」
拓真が承知してくれたので、近くに立って、ココナツを削る作業をじっと見ていた。とても簡単そうに見える作業だが、それだけ、拓真がこの作業に慣れているということだろう。一連の動作はとても滑らかだった。
やがて、バケツがいっぱいになったところで、
「はい、今日はこれでおしまい。ボスのところにこれ持って行ってくる。」
と、拓真は大きなバケツを引きずって奥に行ってしまった。
しばらくすると、なにか瓶のようなものを持って、拓真が再び現れた。
「はい、玲さん。これが昨日約束したココナツオイル。髪につけたらいいよ。」
「あ、ありがとう。」
オイルの瓶を受け取って、拓真の顔を見上げると、拓真は汗だくだ。玲は黙って、自分の首にかけたタオルを差し出した。
「ありがとう、玲さん。」
遠慮なく受け取った拓真は、ごしごしと顔や首筋の汗をぬぐった。そして、タオルのにおいをかいで、
「良い匂いがするね。玲さんのにおいかな?やっぱ島の女の子とは違う匂いだね。」
と言って笑った。
何と言って返せばよいかわからず、玲は黙っていた。
「行こうか、店。サバナ母さんの店。」
拓真はさっさと先に立って歩いて行った。
「もう、仕事終わりでいいの?午前中だけで。」
「うん、僕は誰よりも早く来て、さっさと一日分の工程を終わらせて、午後は帰ることにしてる。仕事はちゃんと一日分やってるから、文句は出ないよ。」
「そうなんだ、有能なんだね。」
玲は感心すると、拓真は笑った。
「島の人間がルーズでなかなか来ないんだよ。僕の二時間後に来て、それから一時間ぐらい喋ったり、なにか食ったりしてるだけで、なかなか作業しないからね。作業に入っても休憩が多いし…。レノみたいなまじめ人間、島ではなかなか少ないよ。」
「そっか。おおらかな土地柄なんだね。日本じゃ考えられない。」
「そうだね、びっくりするよ。いろいろと。」
店にはすぐについた。日曜日には何の物も並んでいなかったが、今日はなかなかにぎやかに商品が並んでいる。輸入物と思われる食品を中心として、生活雑貨などもいろいろ並べてある。
「レノのお母さんの好きなもの、教えて?何買えばいい?」
「パンと、小麦粉、缶詰かな…。あと、コーヒーとか紅茶とか。」
「わかった。」
言われるがままに商品を購入した。店の片隅にカセットコンロ用のガスもあるので、それも買うことにする。「家の中のガス」というのは、プロパンでもなく、この簡易型のガスのことだったのだ。そうしていると、ふと、売られている麦わら帽子が目にとまった。
「島の人って、帽子かぶらないよね、私、かぶったら変かな?」
「好きにすればいいよ。」
「目立つかな…と思って。」
「日本人てだけで、十分目立ってるよ。」
声を立てて笑う拓真に、玲は頬を染めた。
「買い物済んだら、あとで、村の長に紹介してあげるよ、玲さん。」
「なにかお土産持って行った方がいい?」
「やめたほうがいいよ。」
「わかった。」
素直に言って、店主の女性に支払いをして、玲は拓真について店を出た。商品は、当然のように拓真が持ってくれる。
「なんか、玲さんて、僕より年上なのに、年下みたいだね?」
拓真にそんなことを言われてしまう。
「そうかな、知らない国に来て、なんにもわからないから、ついつい拓真に頼っちゃうからだろうね。私、二十七歳で、あんまり年下に見られたこともないんだけどな。」
「もう二十七なんだ!大学出てまもないぐらいかと思ってたよ。結構……お姉さんなんだね。」
「おばさん、て、言いかけなかった?今」
「ちがうちがう。」
拓真は快活に笑った。
「拓真は…、いま十九だよね、確か。」
「……うん。」
急に無口になる拓真。今までと打って変わって、陰った表情に変わる。しばらく黙って二人で歩く。赤土が風で舞い上がって、汗に濡れた皮膚や服にべたべたと付く。黙っていると、より暑さを感じて、玲はため息をついた。
「……ねえ、玲さんはさ、父さんに、どれぐらい僕のこと、聞いてるのかな。」
不意に拓真が口を開く。
「どれぐらい…って言ったらいいんだろう。…お母さんが病気になって、それで亡くなって、その後、拓真も調子を崩して、学校に行けなくなって、留学に行って、その先で行方不明になった。そんな感じで話を聞いたよ。」
「そうか…、母さんの死因についても聞いてる?」
「自分で…とは聞いたけど…。」
玲は言葉を濁す。「割腹を図りながら、首を吊った、凄惨な現場だった。」と克哉からは聞いた。それを発見したのが、拓真だということも克哉から聞いたが、それをいま言うのはためらわれた。
「詳しいことはそこまで聞いてないよ。上司と部下って言っても、期間限定のことだし…。」
実際に、拓真のことについて初めて聞いたのは、玲の仕事が終わる日で、それから海外渡航が正式に決まってから、一度打ち合わせしただけに過ぎない。
拓真の身体的特徴を言って、
「ほんとうに大丈夫か、何かあったら、すぐに連絡してくれ。」
克哉は心配そうにしていた。
「若い女性一人で、海外に行くことも最近は珍しくないようだが、くれぐれも身辺に気を付けて。」
「はい。気をつけます。……もし、拓真くんが見つかったら、何か伝言はありますか。」
「拓真の意思を尊重すると、そう言ってくれ。日本に帰るなら、それを全力で支援するし、海外に残りたいのであれば、それ相応の協力はすると。……もし仮に見つからなくても、それは君のせいではない。くれぐれも、身を守ることを第一に、危険な場所へは足を踏み込まないでくれ。」
「拓真くんが、もし、お父さんに会いたいという意思を見せたら、大森さんもその場所に、来られますか。」
「もちろんだ。彼がその意思を見せたら、すぐにでも連絡が欲しい。」
再び黙っていた拓真が口を開いて、玲のそんな回想を打ち破った。
「……玲さん、てっきりお父さんとかなり親しい関係か、なにかかと思った。その程度の薄いつきあいで、なんで僕を探そうと思ったのかな。」
「……一言では言えないな…。」
玲は考える。考えてもはっきりとした答えは出ない。
「ずいぶん好奇心旺盛なタイプ?それとも根っからのお節介?」
「どっちでもないけど…敢えていうなら、おせっかいの類かな。」
冗談でもなく答えた。
「そういう生き方をしてきたから…私自身。」
「おせっかいな生き方?」
「そうだね…。」
「……迷惑な人だね、って突き放せるほど、僕、強くないから、困ってしまう。」
「拓真は優しいんだよ、もともと…。だって、お父さんから聞いた、ずっと、病気のお母さんの世話をしていたのは、拓真だって。」
「………世話って言うのかな、あれ。」
拓真の言葉はまた、途切れる。
「ね、拓真はさ、どうやってこの島に来たの?誰かの船に乗せられてきたようだ、ってレノが言ってたけど。」
「……うん、まず、そこから話そうか。」
拓真は、説明してくれた。
桟橋で、拓真は意識を失った。もともとの病気の発作によるものか、熱中症によるものかは判然としないが、気が付いたら、知らない外国の男の操船する小型のモーターヨットに乗せられていた。ジョン、と名乗ったその男は米国人だと自分のことを言った。嘘をついているのか、本当のことを言っているのかを判断するすべもなかった。
ジョンはペドフィリア(少年性愛者)だと自分で言った。ただ、無理やりな関係は望んでおらず、双方合意の上で、関係を持ちたいと言った。拓真は当然拒否したが、あまり強く否定すると、海に放り出されるのではないかという懸念もあった。そうこうしているうちに、時化になり、ジョンは船のコントロールで手いっぱいになった。ヨットはずいぶん流されて、この島にやってきた。とりあえずの燃料や食料を確保するために、ジョンはヨットを停めて、サバナの店にやってきた。サバナは英語を一応喋れるが、相当の訛りがある。ジョンが四苦八苦しながら、欲しいものを求めている間に、こっそりと拓真はキャビンを出て船を降り、コプラ工場に隠れた。コプラ工場で働いていたレノに、つたない英語で状況を説明すると、かくまってくれた。
ジョンは拓真が下船したことに気づかずに出航した。それから、レノは拓真がしばらく身を隠すために、と自分の家に連れ帰ってくれた。
「そうか…誘拐に遭ったようなもんだったんだね。というか、本当に誘拐か。」
「まあ、そうだね。」
「桟橋に、教科書の鞄が落ちていて、パスポートや財布は部屋にあったという話だから、覚悟の失踪じゃなくて、海に落ちて、流されたんじゃないか、みたいな話になっていたみたい。お父さんも探しに来たみたいだけど、何も手がかりがなかったって。」
「……そうか……。じゃあ、やっぱり、レノの言うとおり、葉書を出して、無事を知らせることができて、良かったんだ。」
「…でもそのまま、ここにとどまり続けてるのはどうして?本島に行って、事情を話せば、帰国することも可能だったんじゃないの…。」
「…………。」
しばらく黙って、拓真は答えた。
「父さんにまだ、会いたくなかったから。」
その言葉に、玲も黙る。やはり、克哉の予想通り、拓真は父に恨みがあるのだろうか。
「…お父さんと一緒にいたくなかったから、留学を考えたってこと?」
「それもある。」
「そう…。」
それ以上のことが聞けず、しばらく二人で並んで歩いた。間もなく村が見えてきた。
「長の名前はファウラって言うんだけど、その人ももちろん、呼び捨てでいいからね。ミスターとかつけちゃだめだよ。」
拓真に言われる。
「わかった。お土産がダメなのはどうして?喜ばれない?」
「喜ばれないわけじゃないよ、もちろん、喜ばれるよ。……ただ、ものをくれる人だと思われると、後々厄介だ。次に会うときも、何か持ってくると思われる。それが当たり前になってしまう。日本みたいに、最初のご挨拶だけ、ってわけにいかないからね。」
「そういうもんなんだ。」
ひとつひとつ、文化の違いが身に沁みる。拓真がいろいろ教えてくれるからこそ、ここで暮らしていけるのだ。では、拓真にいろいろここの暮らしを教えたのは、レノだったのか。
「レノは、拓真のこと、親友だって言ってた。」
「レノはいいやつだよ。少し日本語も教えて欲しいって言われてたんだけど、うまく教えられなかったな…。それが申し訳ないよ。」
「『アリガトウ』、『コンニチハ』、『ハルハアケボノ』その三つしか知らないって言ってたよ。」
笑いながら、玲は言う。
「春はあけぼの、なんて渋い言葉知ってるんだな、って感心したよ。」
「いろいろ日本語教えたのに、その三つだけ残るってなんなんだろうね。」
拓真も笑う。村が近づいてくる。
「ファウラもこの時間なら、海から戻ってるだろう。ファウラは船を持っていて、引き網みたいなので魚を獲る。村のみんなに分けてくれることもある。ま、僕は自分で釣るのが好きだから、陸釣りするけどね。」
「そうなんだ。」
一度、レノの家に戻り、買ったものを手渡してから、村の長の家に向かう。長の家も、やはりほかの家と同じような木造の黄色い家で、格別大きいということもない。カッターシャツをきた、若々しい老人のファウラ村長は、玲の手を握りしめて英語であいさつをした。その後、拓真といろいろと話し、うなずいて、玲に何か言った。
「ようこそ、ゆっくりして行って。みたいなこと言ってるよ。」
玲も英語でお礼を言って、長の家を後にした。
「ファウラは、私のことを、レノの恋人だと誤解してないかな?」
「大丈夫、僕が説明しておいた。」
「なんて?」
「僕の客人だって。」
「そうか。ありがとう。」
「別に…本当のことだし。」
「そうなんだけど…招かれざる客だから。」
「…でも、僕は来てもらえてうれしいけどな。」
「だったらいいんだけど…。」
玲の言葉は途切れる。父には会いたくなくても、日本人に会えることは純粋に嬉しいという拓真の複雑な気持ちを推し量るが、すべてがわかるわけではなかった。
「ちょっと待ってね、家から釣竿とか取ってくる。」
そう言って拓真は駆け出して行った。
家、というのは、レノの家だった。海辺の家は、いつ流されるか分からないから、貴重品はおかないようなことを言っていたが…拓真自身は流される危険がありながら、海辺に一人で住み続けているのはなぜだろうか。
バケツと釣竿を持って、拓真はふたたび現れた。
「ね、拓真がレノの家にいるとき、拓真はどこで寝てたの?」
「あ、レノの寝室と、母さんの寝室を取り換えてもらって、母さんの寝室でレノと二人で寝てたよ。母さんの部屋、ベッドが二つあるから。ソロファとアロファの亡くなった父さんのベッドがあるからね。」
拓真の言葉にひっかかるものを感じて、玲は聞いてみる。
「ソロファとアロファのお父さん、ていうことは、レノのお父さんは別ってこと?」
「…そうだね。レノのお父さんは、ココヤシの木に登っているときに、雷に打たれて亡くなった。ソロファたちのお父さんは、船で海に出ているときに、波に巻かれて亡くなった。母さんは、二度目の未亡人なんだ…。」
「そうか…不幸が続いたんだね。」
「そうだね…。レノの仲間たちが、次々と島を出て働きに行ってる中、レノが給料の安いコプラ工場にとどまっていたのは、お母さんが心配だったからじゃないかな。」
「そうだったんだね…。そんなに家族思いでも、島を出なくちゃいけないって、厳しいね。」
「まあね…。」
拓真がさっき言っていた「二十年前のナマコショック」という言葉が思い返される。あとで、そのこともゆっくり聞いてみよう。
「バケツ、私が持とうか?」
「別にいいよ、軽いし。」
バケツの中には、魚籠のような網だけが入っていた。
「餌はどうするの?」
「海にいくらでもある。」
「そっか。」
海岸に着くと、岩場のそばで、拓真は何か探し始めた。ヤドカリを三つ四つ拾うと、バケツに入れる。やがて、拓真がいつも釣りをしているという岩場の上で、石で殻を叩き潰して、なかのヤドカリを引っ張り出す。それを二つに千切って小さな針につける。数分もすると、小さな魚が釣れた。それを今度は手で開き、釣竿の針を大きなものに取り換えて、その魚の切れ端をつけて、釣竿をたらした。
「そうやって、釣るんだ。」
玲は感心する。拓真の手つきにはその作業に慣れていることを思わせる。
「こっからは長期戦だよ。大物狙うからね。」
「そうか。」
真昼に近い日差しは強く、じりじりと肌を焦がす。
「暑いね。」
「そうだね。涼しい午前中に釣りができればいいんだけど、朝は水汲みや仕事があるし、どうしてもこの時間になってしまう。」
「そうだね…。やっぱり、帽子取ってこようかな…、水も心配だし…。」
玲は立ち上がる。数メートル歩いたところで、「ねえ!」と背後から、拓真に声をかけられる。
「なに?」
「戻ってくる…よね?」
じっとこちらを見る拓真のまなざしが、佐緒里を連想された。玲は黙ってうなずいた。
戻ってきた玲は、
「拓真も水、持ってる?」
「持ってるけど、少なくなってきたかな。」
「少し、あげるね。」
自分の水筒から、半分ほど拓真の水筒に水を移す玲。
「ありがとう。」
「この水筒はどうしたの?」
拓真に聞いてみる。拓真の水筒はオーストラリアから輸入したもののようだ。
「サバナ母さんの店で、レノが買ってくれた。レノやソロファみたいに、僕はココヤシの木に登って、好きな時にかち割って飲むみたいなことできないから。長いこと使って、この水筒、結構、もうガタが来てるよ。でもまだ、使えるからね。玲さんのは日本製でしょ?丈夫そうでいいね。」
「帰国する時、あげるよ。」
「いいよ、道中、困るでしょ。」
「サイダー何本か持って帰るから、大丈夫。」
「……帰国しちゃうんだよね。」
不意に拓真の声が沈み込む。
「お祭りまでいるよ、そう約束したから。」
「そうだね…。」
「拓真も、一緒に帰る?」
「無理だよ…。」
「そう…。」
聞きたいことはたくさんあるが、まだ、踏み込めない。まだ出会って二日目だ。玲の心にためらいが生まれる。なぜ、父に会いたくないのか、なぜ、帰国が無理なのか…。どこまで触れてよいものか、わからない。
「そういえば、ナマコショックってなんのこと?」
玲は話題を変える。
「……ああ、そういえば玲さんに話したね。朝。」
物憂そうに釣竿を垂らした拓真が答える。
「ナマコはね、かつて、この島の周辺にごろごろいた。誰もこの島の人間、あんなグロテスクなもの、食べないからね…。彼らがナマコに触れるのは、岩場を歩く時、足をけがしないように、ナマコの吐き出す何かを足に巻きつけて、足を保護するときぐらいだ。それが終わったら、また海の中に、ポイ、だよ。」
釣竿を地面に突き立て、拓真は寝転び、話しを続ける。
「…そこに、中国人バイヤーがやってきた。中国人バイヤーは、ナマコが金になる食材だと、説いて回った。一枚の紙を示して、この通りに干しナマコを作って、それが質の良いものになると良い値で買い取ると、説明した。その金額を聞いて、島の人間は驚いた。すごく高額だったらしい。手はかかるけど、あんなそこらじゅうどこにでもいる気持ちの悪いものが、金になるとわかって、必死になって、村中のみんなで干しナマコを作った。バイヤーも熱心に指導した。出来上がった干しナマコの質に満足したバイヤーは言った通りの金額で、ナマコを買い取って行った。村中湧きに湧いた、らしい。」
拓真はため息をついた。
「僕の話は、レノから聞いた、また聞きね。レノだって当時はまだ幼かった。大きくなってから、詳しいことを大人から聞いたんだ。だから僕の話は正確じゃないかもしれない。そう思って話半分に聞いてね。」
そう断って、拓真は言葉を続けた。
「今ある村の家は、みんなその頃に建てられたものだ。それまでは、いま僕の住んでいるような海辺の家と大差ない昔ながらの家に住んでいた。今のレノの家を見てわかるように、急速にその時、村は文明化が進んだ。小学校も新しくなったし、ナマコ漁のための船も購入された。外国産の食べ物や便利な道具もたくさん輸入され、サバナの店はものであふれて、店を広げた。中国人は英語を使ったから、英語教育も盛んにしようって話で、小学校の授業はほとんど英語で行われるようになった。」
「そうなんだ…。だから、子どもと若者は英語が使えるんだね。」
「そうなんだよ…それが良かったのか、悪かったのか…。ま、続きを話すね。一年半ぐらいして、バイヤーは常駐を止めて、時期を決めて買い取りに来ると約束して帰って行った。村のみんなは、今度は船でせっせとナマコを収穫して、バイヤーの言うとおりナマコを作りつづけた。でも、それが乱獲だっていうことに、誰もその頃は考えつきもしなかった。」
拓真は言葉を止めて起き上がる。
「三年ぐらいはね、良かったらしい。…でも、だんだん、獲れるナマコが減って行った。買い取りに来たバイヤーも首をかしげるような質に落ちて、値段も下がってきた。そして、バイヤーが島を訪れる間隔も、だいぶ間延びしてきた。でも、その時、人々は気づいた。もう、もとの暮らしには戻れないってことを。人々はパンや缶詰の味を覚えてしまったし、好きなものを好きな時に買う便利な生活に気づいてしまった。輸入された品々と同時に、いろいろな文明国の知識も耳に入り始めた。電気を引いて、電化製品のある便利な暮らしをしたいという夢も出てきた。でも、そんな夢は、ナマコの不漁とともに打ち砕かれた。」
波の音のする中で、拓真の話は続いた。
「特に、豊かで近代的な生活の中で、英語を教えられて育った子どもたちは、昔ながらの暮らしを嫌うようになった。英語が使えるってことは、外国のだいたいどこに行っても、働き口に困らないからって、学校を卒業したら、こぞって若者は島から流出しはじめた。そして、外国で、本当に電気もガスもトイレもある生活を始めると、二度と島には戻って来なくなった。家族で別の島や国へ移住する人も増えてきた。」
「そうか……。」
玲はつぶやく。村を歩いていると、子どもか年配の大人しかおらず、若者の姿を見かけない。レノのように家族を養うために出稼ぎに行く人間が多いのだと思っていたが、必ずしもそうではなかったのだ。
「ファウラはね、ナマコでなんとか豊かな暮らしを取り戻して、村に電気を引いて、若者を呼び戻したいと思っている。……でもね、あの時みたいにナマコをたくさん獲るなんてこと、不可能なんだよ。乱獲しないように量を制限したら、結局全盛期の三分の一も獲れないし、一度減ってしまったものは、もうなかなか増えてこない。ナマコの買い取り価格も当時のようにはいかないみたい。…でも、昔ながらの暮らしに戻るのは、なかなか難しい。昔は一つしかない部屋で家族みんなで雑魚寝をしていたけど、今はそうじゃない。レノもソロファもアロファも自分の部屋を持ってるでしょう?あの子たちに、今さら昔の暮らしをしろったって、無理な話だと思う。」
「そうだよね…。」
「中途半端に取り入れられた富と文明は、結局この島にいいことをもたらさなかった。ナマコはこの島を支える産業になりうる夢を見せるだけ見せて、結局この島の文化を破壊したんだ。…これがレノの考えているナマコショックね。」
「レノは、そう思ってるんだ…。」
「レノは誰よりも賢くて、この島を愛しているからね。レノも外国で働きながら、この島にナマコに代る永続的な産業が何かないか思いをめぐらせていると思うよ、いまでもね。」
「そうなんだね。」
真面目に仕事に取り組んでいた、思慮深そうなレノの横顔を玲は思い返す。
「レノは、それでいて、昔のことをみんなが忘れていくのも残念に思っている。だから、数少ない仲間を集めて、僕が住んでいる昔ながらの家を作り上げた。そんな仲間も一人二人と減ってゆき、結局、レノも働きに出ざるを得なくなった。昔ながらの服を、弟や妹たちが着たがらないとかっていう理由でね。」
拓真は深いため息をつく。
「…僕も微力ながら、レノの代わりにコプラ工場で働いて現金収入を得ているけど、せいぜいパン買うぐらいしかできない。結局、この家族の生活を支えているのは、不定期に入ってくる母さんのナマコ工場の収入と、レノの仕送りによるものだ。最近は祭りにも帰らない、仕送りすらしない若者が増えてるって、ファウラが嘆いている。」
「そうか…。日本人の抱いてる南国の島のイメージとは、だいぶ違うね…。」
「そうだね…。」
二人で岩場の上で黙り込む。
「…私、何ができるだろうか。」
玲がつぶやくと、拓真が笑う。
「玲さんは、ほんとうにお節介だね。なにもしないほうがいい。言ったでしょ?ものをくれる人だと一度思われると、ずっとものをくれる人だと思われる。何かしてくれる人だと思われると、こんどはずっと何かをしてくれるひとだと思われるよ。僕は身をもって知っている。」
「…………。」
玲は何も言い返せない。水汲みをし、仕事に出て、家長のようにふるまう拓真の姿を思い返す。
「……ねえ、拓真が帰れないのは、ほんとうはレノの家族のことが心配だからなんじゃないの?」
玲はふと湧いた疑問を口にする。
「玲さんは、レノと同じ心配を僕にするんだね。レノは、僕が一人の時間が欲しいって言うと、あの家に一人で住むことを勧めてくれたし、父さんにも葉書を書くようにも言った。…でも、僕が帰れないのはそんな理由ともまた違うんだ。」
「海の底に捕らわれてるから?」
思わず玲は口に出す。拓真は黙り込む。
長い沈黙の中で、玲が自分の言葉に後悔しているとき、拓真は言った。
「ねえ、何か、日本語の歌を歌って。」
拓真の思いがけない望みに、玲は動揺する。
「え…私、あんまり歌知らなくて…、歌番組見たりすること少なかったし…。」
「なんでもいいよ。童謡みたいなのでもいい。音楽の教科書に載ってるような歌でもいいし。」
「あんまりうまくないんだけど…。」
「いいじゃん、聴くの僕だけだし。」
そう言われて、なんとなく玲は歌いはじめた。高校の文化祭でクラスで合唱した歌だった。
「名も知らぬ 遠き島より 流れ着いた椰子の実一つ
故郷の木を離れて 汝はそも波に幾月。」
島崎藤村の有名詩に曲をつけたものだが、焦って玲は歌を止めた。激しい望郷の想いを歌ったものだ。今の拓真に聴かせるのにふさわしい曲とは言えない。
「なんでやめちゃうの?」
不満そうに拓真が言う。
「結構いい曲だと思ったのに。風景にも合ってたし。」
「ごめん、ほんとこの先、知らなくて。」
玲は誤魔化す。
「…わかった。玲さん、ほんとに歌、苦手なんだね。でも別に音痴じゃなかったよ。きれいな声だった。」
「ありがとう。ごめん、ほんとに歌知らなくて。」
「いいよ…。」
拓真はぽつんと言う。
「…なんか、今日はあんまり釣りに身が入らなかったな。…ごめん、お刺身食べさせてあげられなくて。」
そう言いながら、釣竿を引き上げて片づけ始める拓真。
「ごめんね。私、邪魔しちゃったみたい。」
「…ほんとだよ。勝手に来て、心かき乱していくって言うか…。おせっかいって罪深い。」
「来るんじゃなかったね、私。」
嫌味でもなく、沈んだように言う拓真の言葉に、玲はしおれる。
「でも、来ちゃったものはしょうがないんだから、ちゃんと責任もって、約束通り、お祭りまでいてよ。」
拓真は冗談でもなく真面目に、そう言う。
「わかった。拓真がそう言うなら。」
玲は約束する。
「明日も水汲みに一緒に行って、釣りにも付き合ってね。明日はちゃんと釣る。…僕もこの島に住んで長い。今日玲さんがしてくれたことは、明日もしてくれるって思っちゃうから。」
にっこりと拓真は笑った。その寂しげな笑顔に、ふっと玲は胸を衝かれた。
レノの家に帰りかけて、ふと拓真は反転して駆け出した。
「ごめん、ちょっとトイレ。先に帰っておいて!」
「あ、釣竿持って帰ろうか?」
「いいよ、別に。おせっかいな玲さん。僕のトイレはマングローブの中!」
愉快そうに叫んで、拓真は駆け去って行った。
その日の夕食は、朝食のように賑やかに進んだ。魚は無かったが、農作物は豊富にあったし、玲の買ってきた缶詰も喜ばれた。
「お祭りの日や、特別の日曜日には豚を屠って食べるんだよ。でも、普段の肉料理はコーンビーフが多いかな。」
拓真が説明してくれる。拓真とは日中喋る機会が多いので、なるべく子どもたちと話をするように務める。学校は二つの村の間にあり、子どもは一つの学年で二十人もいないらしい。十人を少し超えるぐらいだそうだ。英語での授業はどうか、と聞いてみると、難しいが、大丈夫だ、というようなことを言う。学校に上がる前から、レノと英語で話すようにしていた、とも。
レノの優しい兄としての姿が想像される。拓真のことを話すときも、まるで自分の弟のことを話すかのように優しい瞳をしていた。
「レノはいいお兄さんね。」
というと、子どもたちは口々に、
「大好きだ、もうすぐ会えるのが楽しみだ。」
と言う。
拓真は、ずっとレノの母と喋っている。時々なにかうなずいて、笑顔も見える。食後に、拓真に言って、レノのお母さんから糸を借りて、あや取りを子どもたちに見せてやる。
まるでマジックでも見るように子どもたちは楽しんで手を叩いてくれる。拓真もその様子を微笑みながら見ていた。楽しい時間も終わると拓真は立ち上がり、帰り支度を始めた。
「じゃあ、玲さん、また明日。」
拓真は快活に背を向ける。昼間に見せた翳りのある表情は、レノの家では全く見せない。
玲も昨日のように歯磨きをして、水瓶の水で身体を綺麗にして、眠りについた。
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