第20話 勝敗の可能性


 押し出そうとした言葉が喉にからみつく。

 やっとの思いで俺はそれを吐き出した。


「のぞ、み……?」


 口にする勇気のなかった名前を、ためらいがちに声に出す。

 すると、彼女は満面の笑みを浮かべる。

 目尻には涙さえにじませて、とびかかるように抱きついてきた。


「会えた……やっと会えた! あのとき、わたしのせいで死んだのかと思ったけど、やっぱり会えた!」


 彼女の髪が発する甘い香り。

 やわらかく伝わる身体の重み。

 首に回された腕。

 それらが俺に彼女の存在が幻覚ではないことを教えてくれる。


 では、なぜ希美がここにいる?

 やはりあれはすべてなにかの間違いだったのか?


 力が抜けると同時に、左手からなにかがすべりおちて音をたてた。

 失ったそれが携帯電話であり、現在ナユタと通話中であることを画面が示していた。


 それが彼女の実在に対する答えだった。

 並行世界だ。


 その事実にいきつくと、混乱した頭がすっと熱を失う。

 この〝吉野希美〟は、接近中の並行世界からこちらに乗り込んできた。

 そして、向こうの世界では俺が――〝木戸博明〟が死んでいる。

 だから、会えた。


 きっとそれはささいな分岐だったのだろう。

 ほんの、取るに足らないような出来事が俺たちの生死を分けた。


 あのとき――追いつめられて、俺たちはじゃんけんで己の役割を決めた。

 幼いころからそうしてきたように、じゃんけんをした。

 あの勝敗で、どちらが生き残るのかが決まったといってもいい。

 もしも囮役が俺だったなら、きっと死んでいたのは俺のほうだったから。


 些細な違いだ。


 あのときのじゃんけんに負けたのが、俺の世界で。


 あのときのじゃんけんに勝ったのが、彼女の世界だ。


 それだけ。

 ただ、それだけのことだ。


 こんなことに心を乱されていちゃいけない。

 俺がやるべきことは――変わらない。


 使命感が俺の身体を動かす。

 その腕が、甘く抱きついてくる希美を引き剥がした。


 惑わされるな。

 俺は腰の銃を抜き、悲しげに目を見開く彼女に突きつけた。


 ほとんど距離なんてものはなかった。

 銃口と彼女の額との間には数ミリの隙間しかない。

 俺が引き金を引けば、彼女は死ぬ。


 指が震えた。


「どうしたの、ヒロ? 怖い顔をして」


 少女は困惑したように表情をくもらせる。

 そして、俺が考えを改めるのを待つみたいに、銃口の前からどこうとはしない。


 希美の表情が、よく似ていた。

 頭では並行世界だとわかっているのに、他の感覚器官がそれを認めない。


 目の前にいる、悲しそうな少女は吉野希美だとそう言ってくる。

 嫌な後悔が顔を出す。


 頭が痛くなる。

 銃を構えていないほうの手で額を押さえずにはいられなかった。


 いつの間にか、後ろに下がっていたのは俺のほうだった。

 足が勝手に、背後によろめく。

 狙いの定まらない銃口と、彼女との距離が開く。


「違うだろ。そうじゃない……そうじゃないはずだ……!」


 銃の重みに腕が、俺が、耐えられない。

 今までの記憶がのしかかるように、銃は重みを増していた。

 支えきれずに震える。


「よく考えて、ヒロ。わたしたちは戦わなくてもいいのよ。このままでいい。この意味があなたにならわかるでしょう?」


 希美の諭すような言葉。

 このままでいい。

 このまま、世界が衝突すればどうなるのか。


 それは、俺の世界が勝とうと、彼女の世界が勝とうと、俺たちはこのままいられるということだ。

 つまり、死者が生き返ることになる。


 彼女にとっては〝木戸博明〟が生き返る。

 俺にとっては〝吉野希美〟が生き返る。


 どちらの世界が残ろうと俺たちが互いを殺さないかぎりはそういう結末を迎える。


「そうしたらまた二人で一緒に生きていけるのよ」


 吉野希美はそう言って微笑んだ。

 二人で生きていけるのならば、世界がどう変わろうとも興味はないという風に。


 彼女は俺をだまそうとしているわけじゃない。

 本心からああ言っているのだ。


 だますようなことをしなくても、俺を殺すことはできた。

 なのに、今こうして話している。

 それがなによりの証拠だった。


 希美が生き返る。

 また一緒に生きていくことができる。


 その提案は魅力的で、銃口を揺るがせる。


「ねぇ、ヒロ。わたし、ようやく気づいたの。あなたがいなくなって初めて気づいた。あなたがどれだけ大切だったのか。まるで半身を失ったような気がしたわ」


 同感だ。

 俺も、そう思った。

 何度も、強くそう感じた。


「わたしね、近すぎて気づけてなかった。本当はあなたのこと……好きだった。誰よりも、なによりも、大切で、いとおしかった。だから――」


 それは俺が一番望んでいた言葉だった。


 希美が自分のことを好きだと言ってくれている。

 それは聞きたくても二度と聞けない、あの日の続きのような気さえした。


 彼女は、本気で木戸博明に生き返ってほしいと願っている。

 そのことがひしひしと伝わってくる。


 俺だってそうだ。

 自分が何度吉野希美に生き返ってほしいと願ったかもうわからない。


 同じだ。

 俺と彼女は同じなんだ。


 彼女もまた〝木戸博明〟の死を受け入れられなかった。

 〝吉野希美〟が死んだことを受け入れられなかった俺と同じように。


「同じ……?」


 そこに初めて違和感が生まれた。


 俺と希美が同じ?


「違う……」


 希美は、そんな女じゃない。


 あいつは強かった。

 俺がいなくても一人で並行世界の業務をこなしていた。


 並行世界の〝木戸博明〟を撃つことができた。

 俺とそいつが違うと言っていた。


 だから。


 そんな希美なら、あのときたとえ俺が死んだって……あいつは絶対にそこから目をそむけたりはしないはずだ。


 わかっていても、銃身がふるえる。

 俺の手がふるえているからだ。


 歯をくいしばって、両手でしっかりと構える。

 〝吉野希美〟の姿を照準におさめる。


「ヒロ……?」

「違う。君が好きだった〝木戸博明〟は、もう死んでるんだよ……!」


 決定的なその一言に彼女は苦しげに表情をゆがめる。

 やめてくれ。

 俺の知ってる彼女によく似たお前が、そんな顔をしないでくれ。


「あなたは死んでないわ! 私だって――」

「俺が知ってる〝吉野希美〟はもう死んだ。俺があこがれた彼女は、綺麗で強くてなによりも大切だった彼女は、もう死んでるんだ」

「並行世界よ! 私もあなたも、死んだ人と同じ存在だわ!」

「違う!」


 それがなによりの違いだ。

 きっと俺の知っている希美は、たとえ死んでもそんなことは絶対に言わない。


 並行世界の〝木戸博明〟を間違っても「ヒロ」とは呼ばなかった。


「希美は死んだ! 木戸博明も死んでる。俺と君はよく似た別人でしかない」

「そんなこと――」

「死んだんだ!」


 それ以上、彼女の声を聞いてられなくて俺は引き金をひいた。


 軽い、とても軽い発砲音。


 彼女の左胸に小さな穴があいて、そこから真っ赤な血があふれだす。

 見開かれた瞳は、驚愕の色に染まったまま光を失っていく。


 後ろ向きに倒れた彼女は起き上がらない。


 力なく投げ出された指は二度と動かない。


 彼女に似た声も二度と発することもない。


 いつか見たように、血が流れていく。

 しかし、そのときと今度では決定的に違うこともある。


 俺が、殺した。


 この手で、撃った。


 足が砕けたように、俺はその場にひざをついた。

 気持ち悪い。


 指先の感覚がなくなり、拳銃がこぼれ落ちた音だけが鼓膜をゆさぶる。

 その音すらも次第に遠ざかった。

 代わりに周囲の音をかき消すような耳鳴りがする。


 目がまわる。


 どこが地面で、どこが空なのかわからなくなる。


 暗くなっていく視界の中で、幻の希美が振り返る。


 その顔が見える直前で視界が歪み、俺は意識を手放した。

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