第二章 許しは乞わない
第8話 お礼のお礼の……
傘というものにお世話になったことのない人はいないだろう。
雨のときにぱっと開いて、濡れるのを防ぐためのアレだ。
だからわかってもらえると思うのだが、あれは持ち運ぶにはそこそこ邪魔になる。
できれば持ち歩きたくはないものだ。
それでも、予防は必要だったのかもしれない。
たとえ車が来ていなくても信号が青になるまで横断してはならないのと同じように、雨が降っていなくったって傘は持っておくにこしたことはない。
特に今の時期――梅雨の場合は。
「あ~……」
図書室には電気がついているのに、どこかよどんでいる。
窓の外が灰色だからだろう。
煙突から出る汚れた空気のような雲が空一面を覆っていて、そこからは絶えることなく大粒の雨が降り注いでいる。
天気予報も今日は雨だと言っていた。
なのに、俺は傘をもってない。
言いわけをさせてもらえるなら、家を出るときはまだ降ってなかったんだと言いたい。
だからなんとか帰るまではもつだろうと思ったのだ。
結果、それはとんだ判断ミスだったという話なのだが。
小雨ならともかく、これほど強い雨になると走って帰るのはちょっと厳しい。
カバンが確実に濡れて、中のノートや教科書がダメになってしまう。
湿気のにおいが鼻につく。
雨の日独特の嫌なにおいだ。
もっと小さな年の頃は雨に濡れることなんか全然気にならなかった。
むしろ、傘を持つことをうっとうく感じていたくらいだった。
なのに、今では濡れることを嫌がって用もなく図書室に立てこもっている。
年をとるとは恐ろしいことだ。
俺の記憶が混濁したあの日。
別の視点から見れば、希美の前でスカートとパンツについて熱弁をふるったあの日から数日が過ぎていた。
その日の授業分が俺たちの学習状況からすっぽり抜け落ちているのだが、頼みの綱であった片岸もそれは同じ。
そもそも片岸はあの騒動以来、俺から距離をとってしまっていた。
混濁中の自分を恥じているのか、それとも大まじめにサドルとスカートの話を展開した俺をさけているのかは定かではない。
けど、これは時間が経てば解決することだろう。
しばらくすれば互いにそんな事情を忘れてしまう。
男同士なんてのはそういうものだ。
それよりも、もっと深刻なことがある。
男同士の仲は適当に解決することができても、相手が異性だとそう簡単にはいかない。
右手に握ったままの携帯電話を見る。
希美、と登録された電話番号に電話をするべきか否か。
今日はそれをずっと考えていた。
スカート騒動で気まずくなったのは、片岸とよりもむしろ希美とだ。
女子の前でスカートがどうとか、その下のパンツがどうとか、そんなことを熱弁すれば気まずくならないはずがない。
それくらいは俺でもわかる。
けど、それをどう埋めるべきかがよくわからない。
困った。
「いや、やっぱり……」
ここでこうしていても仕方ない。
電話をかけよう。
さすがに図書室で堂々と通話するわけにはいかないので、カバンを肩にひっかけて、俺は男子トイレに向かった。
決心が揺らいでしまうと困るので、歩きながら電話をかける。
希美にではなく、ナユタに。
いつものことながら、ナユタとはすぐにつながった。
『はい。木戸さん、どうかしましたか?』
「たとえばの話がある」
『いきなりですね』
「たとえば、だ。女子の前で少々下品な話題を熱く語ったとしよう。そのせいでその女子と気まずい空気をしばらく味わっている男がいる」
『ああ。自転車のサドルとスカートの親和性について力説していたそうですね』
たとえ話という建前が一瞬で紙くずのように吹き飛んでいった。
「おい、誰に訊いた」
『芳月さんです。下の階にまで聞こえていたそうですよ。非常に興味深いお話です。特にその話をしたのが杉山さんではなく木戸さんであるという部分が』
「いや、そこは掘り下げてくれなくていい。今は仮定の話についてもう少し聞いてくれ」
『続きは容易に予測可能です。話の要点をまとめますと、木戸さんは吉野さんと仲直りしたいということですね』
「……もう少し遠回しな言い方はできないものか」
『木戸さんは気難しいですね。お望みならピー音を入れてお話しすることも、私ならできますよ』
「あ~、もういい」
もう恥を忍んで、直接的に訊くしかないだろう。
「で、なにか良い案はないのか?」
『そうですね。安直ですが、なにかプレゼントを贈るというのはどうでしょうか』
「どんな理由で? いきなりだったら、怪しいだろ。露骨なご機嫌とりに思われる」
『露骨でも嬉しいものだと思いますが』
「そんなことはないだろ。プレゼント作戦を実行するならぜひそれっぽい口実が欲しい」
『では、この前木戸さんの記憶が混濁したとき助けてもらったお礼ということにしてはいかがでしょうか。これなら木戸さんも口にしやすいかと』
「なるほど、たしかに自然だ」
あのとき、直接俺の混濁を直したのはナユタだ。
しかし、前後不覚で右も左もわからないような俺をあそこまで連れて行ってくれたのは希美だった。
それに対してお礼をするのはごく自然な流れである。
気づいてみると今までそうしてなかったことが恥ずかしいくらいだ。
「じゃあ、なにをプレゼントすればいい?」
『それまで私に相談するんですか? 自分で考えたほうがいいと思いますが』
「だって、希美がなにをもらったら嬉しいとか全然わからないし」
『でしたら、一緒に買いに行けばいいかもしれませんね。それなら確実に相手の好みがわかります』
「おぉ、お前、すげぇな」
『ありがとうございます。ところで、木戸さん。覚えてますか?』
「なにを?」
いきなり主語の喪失した問いかけ。
なにかナユタと約束していただろうか?
答えを見つける前に、ナユタのため息が聞こえた。
『はぁ、やっぱり覚えてませんでしたね。今日は、並行世界との衝突が予測されてると昨日お話ししたはずですが』
「そうだっけ?」
言われてみると、なんかそんな話を聞いたような気がする。
『木戸さんは吉野さんのことで頭がいっぱいなんですね』
「それは誤解を招く表現だ」
『まぁこれ以上大事な話を忘れられると困るので、早く仲直りしてください。衝突予測時刻まではまだ二時間ほどありますから。今、連絡したところまだ吉野さんは学内にいるようです』
「そこまで手を回してくれたのか」
『はい。では、幸運を祈ってます』
「ああ、ありがとう」
電話を切る。
今まで悩んでいたのはなんだったのかと思うほど鮮やかにナユタは解決策を示してくれた。
だが、あいつを頼れるのはここまでだ。
ここからは俺が自分で声をかけなければ。
まずは校内にいるという希美を探そう。
決意を新たにトイレから一歩踏み出すと、同時に隣の女子トイレから誰かが出てきた。
珍しい偶然だな、と無意識に相手の顔を見る。
すると、希美と目があった。
「…………」
一瞬、思考が停止する。
もちろん、決意を新たにしたからには声をかける準備だってしていたけども、これは唐突すぎる。
見れば、希美の手にも携帯電話が握られていた。
間違いなくナユタの仕業だ。
あいつを頼ったのは俺だし、実際とても心強かったけどさすがにこれは気をまわしすぎだ。
「な、なぁ、希美」
「なに?」
このそっけない対応はいつもどおりとも言える。
だが、特別冷たいようにも感じられた。
「えっと、その、電話だったのか?」
「ええ、ナユタから。今日は並行世界の衝突があるのを覚えているかっていう確認だったわ。二時間後みたいね」
「そ、そうみたいだな……」
微妙な空気になる。
あまりにも気まずい。
あのスカート騒ぎ以来、ここしばらくまともに会話をしていないのだから当たり前かもしれない。
「えぇっと……そうだ、じゃあこれから時間あいてるか?」
「ええ、まぁ。けど、二時間後にはお互いに忙しくなるでしょう?」
「だったらそれまで、ちょっと付き合ってくれよ。この間のお礼がしたい」
「お礼って?」
「いや、ほら……混濁してたときに、助けてくれただろ」
「…………」
視線が突き刺さる。
腹の底を見透かされるようで、俺は息がつまった。
別にうしろめたいことをしているつもりはないが、下心はある。
プレゼントでご機嫌をうかがいたいのだ。
「……わかったわ」
やがて希美は了承してくれた。
腹の底まで見透かして、俺のねらいまでわかったうえでうなずいてくれた気がする。
「それで、どこに連れて行ってくれるの?」
「えっと、なにかお前にプレゼントをと思うんだけどなにも思いつかなくて。どこか行きたい場所があれば、そこに行こう」
希美の顔がゆがんだ。
どうやら好感度が下がったらしい。
下方向の矢印が見えるようだ。
ダメだ、これ。
ナユタのプランではなく、俺の言い方が悪かったに違いない。
「……いいわ。じゃあ、行きましょう」
「あ、はい。すいません、なんか」
希美は踵を返して、さっさと玄関のほうへ向かう。
どちらが先導すべき立場なのかを忘れてしまいそうになった。
急ぎ足の希美の後ろについて、玄関までたどりつく。
外は滝のような雨が降っていた。
おでかけ日和の真反対だ。
「あっ!」
そこまで来て、自分が傘を持っていないということを思い出した。
さっきまでは別のことに集中していたせいですっかり忘れていたのだ。
「どうしたの?」
バサッと赤い傘を開いた希美が怪訝な顔をする。
が、その視線が俺の頭から足先まで動くと事情を理解したようだった。
目つきがけわしくなる。
俺の不注意さそのものを射殺すかのような鋭い視線だ。
恐ろしい。
「だって今朝はまだ雨は降ってなかったから!」
自然と俺は言いわけしていた。
「じゃあ、傘持って」
開いたままの傘を差し出される。
これは傘に入れてくれる、ということなのだろう。
多少の照れくささはあるがここは厚意に甘えておくべきだ。
「りょ、了解です」
赤い傘を手に、俺たちは肩を並べて歩き出す。
雨の日は苦手だ。
つい、慎重に歩いてしまう。
特に希美が隣にいるとその傾向は強まった。
歩調を合わせて、ゆっくりと進む。
車道を走る車のヘッドライトが、繰り返し俺たちを背中から照らした。
背後から笑い声をあげて走る子どもたちに追い抜かれる。
彼らも一応傘を開いてはいるが、それはほとんど雨粒を防いでいない。
ちゃんばらごっこをするために、振り回されているからだ。
彼らにはあの傘が刀かなにかに見えているのかもしれない。
頭から足先までずぶ濡れだったが、まぶしいくらいの笑顔だ。
子どもたちは帰り道そのものを楽しむような様子で、水たまりを踏みつけ、笑い合いながら走っていった。
「あんな頃が、あなたにもあったのにね」
希美が前を向いたまま、無愛想に言う。
「今じゃ、こんなだけど」
「お前もな」
小学生の頃の俺たちは、今と全然違っていた。
希美はもっとおとなしくて気弱だったし、俺はもっと活発だった。
どこからあのエネルギーを得ていたのか想像もつかないくらい、元気に走り回っていた。
それが十年と経たないうちに、こうなった。
どうなったのか具体的に説明はできないけど、あの頃とはまったく違うというのはわかる。
もしタイムマシンで当時の二人に今の俺たちを見せたら、どう思うだろうか。
考えても詮無いことだけど、少しだけ気になった。
「ここよ」
希美が俺を連れて来てくれたのは、商店街の一角にあるアクセサリーショップだった。
もしかしたらアーケードの下では傘をささなくてもいいからここを選んだのかもしれない。
「それで、なにか買ってくれるのよね」
「ああ、もちろん」
財布に大きな余裕があるわけではないが希美が俺にそんな高望みをするはずがない。
店に入った希美はキーホルダーや携帯ストラップが並ぶ棚をじっくりと見ている。
その表情は少しやわらかくなっているようだった。
機嫌がよくなっているなら、それはもうこれ以上ないくらいに良いことだ。
俺は一歩後ろに立って、希美が眺めている棚に目を向けた。
「あ、これ」
希美が手にとったのは、猫のキャラクターがついたストラップだった。
雪だるまのように白く丸々とした頭と胴体をした猫の手足はとても短かい。
ついでに目もどこを見ているのかうつろで、口なんかは半開きだ。
その口からは黄緑の舌がはみだしている。
色彩設計がおかしくはないか。
はっきり言って、あんまりかわいくない。
夢に出てきたら、飛び起きてしまいそうだ。
「かわいい」
「えっ」
びっくりして声がでた。
めったに言わないそんな言葉を、なぜよりによってこんな化け猫に言うんだ。
「え、ってなに?」
素早い動きで振り向いた希美が不服そうににらむ。
「あ、いや、それ……うん、かわいいな。それにするか」
希美が気に入ってるなら、プレゼントにしよう。
それが一番だ。
希美はしばし考えるように不気味な猫を見てから「じゃあ、お願い」と手渡してくれた。
レジに向かって、そのストラップの精算をしていると後ろに希美が並んだ。
「なにか他に欲しいものがあったのか?」
「ええ、そうよ」
希美の手には、先ほど俺に渡したのとまったく同じデザインの猫がのっている。
色も形状もまったく違わない。
黄緑色の舌がいやに目につく。
誰かに買ってあげるのだろうか。
さしづめ芳月先輩あたりかな。
「一緒に買おうか?」
「いい。これは私が買うから」
「あ、あぁそう……」
俺は自分の料金を払い終えると、希美が同じように代金を支払うのを待った。
「同じのを買うなんて、よっぽどこのストラップが気に入ったんだな」
そう笑いながら買ったばかりのストラップを差し出すと、希美はまったく同じものを俺に向けて差し出した。
「じゃあ、これはヒロの分だから」
「は?」
「プレゼント交換よ」
びっくりしすぎて普通に受け取ってしまう。
そうしている間に希美は俺が買ったほうのストラップを手にしていた。
「交換したら俺のがお礼にならないんじゃないか」
「お礼のお礼よ。つべこべ言わないで」
その理屈だと、お礼のお礼のお礼が必要になり、それに対するお礼つまりお礼のお礼のお礼のお礼が必要になって……これじゃ永遠に終わらない。
「ちゃんと携帯につけないと、意味ないからね」
「……わかったよ」
これは客観的には意味のない行為だろう。
だけど、俺にはとても価値のあることだった。
自分の携帯電話につけてみると、さっきまでブサイクにしか見えなかった猫も中々愛嬌のある顔に見えた。
我ながら単純だけど、まぁいいさ。
「やっぱりかわいいわ、この猫」
そう言って希美は穏やかに微笑んだ。
その笑顔が、魅力的に見えなかったことは今までに一度もない。
顔が熱くなるのをどう隠そうかと考えていたら手にある電話が鳴った。
それはナユタからだった。
『木戸さん、吉野さんとまだ一緒にいますか?』
「ああ」
『では、一緒にこちらに来てください。並行世界が接近中です』
「二時間余裕があるんじゃなかったのか?」
『あくまで予測です。それにあれからもう一時間弱は経過しています。今から準備してちょうどいいでしょう』
「……わかったよ」
『作戦はどうなりましたか? もしかしていい雰囲気でした?』
「んなわけねーだろ」
『そうでしたか。それはそれで残念です』
「いや、作戦なら失敗はしてないと思うけど……まぁいいや。とにかく、すぐに戻る」
『お待ちしています』
電話を切って希美に向き直る。
「並行世界が接近中だそうだ」
「……そう」
さっきまで笑顔を見せてくれた希美の表情が一気に冷める。
誰が悪いわけでもない。
だが、せっかく機嫌がなおったばかりだったのに台無しだ。
ちょっと俺の気分も悪くなった。
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