第6話 ナユタ先生の並行世界講座・混濁編


 芳月先輩が言った「下」というのは今朝ナユタとあったあの控え室のことだ。

 並行世界に関する一切は、大抵あの部屋を起点にしておこなわれる。


 俺たちはマスターに会釈を返してから、店の奥にあるエレベーターを使って下へ降りた。

 エレベーターの中では現れなかったが、その代わりにナユタは部屋で俺たちを待ちかまえていた。

 扉が開いて一番に、ナユタは俺たちに向かってうやうやしくお辞儀をする。


「ごくろうさまです」

「大変なのはこれからだろ。なぁ、ナユタ。時間はもう少しどうにかならなかったのかよ。また授業を受けられなかったんだけど」

「対処は早いほうがいいのは木戸さんも身をもって体験されたでしょう。どうかご勘弁ください。芳月さんが車の準備をしたらすぐに出発できますから、しばらくお待ちください」

「ま、気楽に行こうぜ。あ、そうだ。なぁ、ナユタ」

「なんですか、杉山さん」

「お菓子置きたいんだよ、三人分」

「お菓子ですか? なるほど。それは冷やしたほうがいいものですか?」

「木戸のはそうだよな。チョコだし」

「ああ」

「では木戸さんは冷蔵庫を使ってください。杉山さんと吉野さんの分は、机の引き出しに入れておくといいでしょう」


 朝来た時も確認したが、この部屋はまるでシェルターのようだ。

 机もベッドも、洗面所もある。

 そのうえ冷蔵庫から簡単な調理器具まで並んでいる。


 もういっそここに住んでもいい。

 そう思いながら冷蔵庫を開けると中身が空だった。

 前言撤回。

 ここに住んだら、飢えに苦しみそうだ。


 それぞれがナユタにすすめられたとおりの場所に買ってきたお菓子をしまっていると、杉山が思い出したように言った。


「あ、そういえばさ。今朝の木戸は混濁していてそれはナユタが修正したんだよな」

「はい、そうですが」

「それって、どうやったんだ? そんなに早く解決できるなら、オレたちにも方法を教えてくれよ」


 今朝俺は杉山に事情を説明するとき、どうやって記憶を呼び起こされたのかについては話さなかった。

 そこは積極的に話したいような経緯ではなかったからだ。


 それを杉山は裏ワザのように思ったのだろう。

 実際に経験した俺としては、あまり他人に推奨できるような内容じゃない。

 それはナユタも同意見のようだった。


「いえ、あれは対象が木戸さんだからできた荒療治です。他の人には使わないほうがいいでしょう」

「なんだそれ」

「では、時間もあるようなのでご説明しましょう」


 そういうとナユタは一瞬にして白衣を羽織った。

 ホログラムだからできる芸当だ。

 つづいて小道具のメガネまでかけると、さらに空中に黒板まで表示させた。


 やることもないので俺も壁にもたれてなんとはなしにそれを眺める。

 知識はかたよっているが受け損ねた授業のようなものだと思えばいい。

 ベッドに腰かけた希美も俺と同じようにナユタの行動を見守っているようだった。


「まずは基本のおさらいから始めましょう」


 先生役のナユタは三人の生徒たちにわかるよう、黒板にチョークで大きく二つの人型を書き込んだ。

 丁寧にそれぞれ赤と青のチョークで色分けされている。左右の手で同時に、まったく同一の人型を書くとはかなりの器用さだ。


「並行世界に存在する人間と、この世界に存在する人をそれぞれAとBとします」


 赤いほうの頭にA、青いほうがBと書き込まれる。

 だが、すかさずそれに杉山が反応した。


「わかりにくいからSとMで説明してくれ」

「バカじゃないの」


 吉野が心底軽蔑した様子で吐き捨てる。

 それでも杉山はめげることなく「オレにはこっちのが理解しやすいの」と唇をとがらせた。


 ナユタが「わかりました」と答えると黒板のアルファベットがぐにゃりと形を変える。

 チョークで書くのにはもうあきたらしい。


「この二人が並行世界の衝突によっていびつに混ざります」


 黒板のうえの人型がアニメーションのように動き出し、衝突する。

 残ったのは紫色の人型が一つ。


 だが、その色は綺麗に混ざってはいない。

 出来の悪い抽象画のようにまだらな混ざり方をしていた。

 部分的にはまだ赤が濃い部分も青が濃い部分も残っている。


「ごらんのように、混ざりきらなかった部分はその人に大きな違和感を与えます。同じ時間に別の過ごし方をした記憶がある、というようなものです」

「それがいわゆる記憶障害って扱われるんだろ?」

「そうです。もちろん、これも重大な問題ですがもっと厄介なのは並行世界の記憶が勝ってしまうことです」

「というと?」

「衝突のさいに残ったのが色濃く残ったのがSさんの世界だとしましょう」


 黒板に赤紫色の球体が現れる。

 あれは多分、地球なのだろう。

 衝突によってMの世界、つまり青い世界と若干混ざったものの、大部分は赤のままだ。


「この世界で生きていたSさんが、記憶の影響でMさんになってしまうということです」

「SがMになるのか……そこそこ興奮するな」

「杉山、お前真面目に聞く気ないだろ」

「失礼な、おおありだぜ。続けてくれ、ナユタ」

「わかりました。ここでは認識の違いが問題となります。たとえばSさんは結婚して家庭を築いていたとしましょう。対して並行世界のMさんはまだ独身だったとしましょう」


 均一ではない紫色をした人型の下に、小さな赤と青の人型が再び現れる。


 赤いほうの人型の隣には別の赤い人型が現れ、胴体には「配偶者」の三文字が浮かぶ。

 その下にはさらに小さな人型が書き込まれた。

 Sさんの子どもだろう。


 青いほうの人型はMの下に「単身」の二文字が現れる。

 それ以外に変化はない。


「このとき、Mさんの記憶を保持するSさんにはどんな問題が発生するでしょう。はい、木戸さん」


 いきなり出現した指差し棒で、俺が指名される。

 手をあげてなかったのに、当ててくるとは。

 というか、なんの前触れもなく生徒参加型授業に変わってやがる。


 えぇっと、Mさんは独身で、その記憶を持ったまま結婚して子どもがいる状態のSさんになるんだよな。

 そうすると……


「ある日突然自分が結婚していてしかも子どもまでいる、という風に感じてしまうことじゃないか?」

「オレは毎朝、オレのことが大好きな美少女が空から降ってこないかって思ってるけど、これは?」

「それは別の病気だ」


 杉山のことは放っておくとして、衝突における弊害は多分間違っていない。

 目が覚めたら、周囲の環境がまるっきり変わっていた。

 それは想像するだに恐ろしいことだろう。


 俺も目が覚めていきなり恋人ができていたら、喜ぶ以前に不気味だと思う。

 もちろん杉山が言うように、空から美少女が降ってきても感想は同じだ。


「そうですね、木戸さんの答えはおおむね正解です。付け加えるとすれば本人だけでなく周りも困惑するということでしょう。こういった記憶の混濁は社会生活を営む上で混乱しか生みません。そのため修正作業が必要になるのです」

「SがMになるのを防ぐんだな。なるほど、それはそれで興奮する」

「お前は結局なんでもいいんじゃねぇか」


 すっかり当初の目的はたち消えてしまった。

 ついに希美も黙って顔をそらすのみで、罵倒すらしない。

 ナユタにいたっては最初から杉山の妄言を相手にしていないようだった。


「それでは本題にうつりましょう。木戸さんをどう修正したのかについて、簡単に言えばショック療法を用いました。並行世界の〝木戸博明〟とこの世界の木戸さんとでもっとも異なっている出来事を強制的に思いださせるのです。そうすることで無事に、本来の記憶を認識できるようになりました」

「ああ、ありゃ目が覚めるよ」


 不意に希美が俺を見る。

 希美には俺がどのような記憶を呼び起こすことで混濁から回復したのかわかったのだろう。


「たしかに即効性があり、一見便利に見えますが」


 そこで、ナユタはゆるりとかぶりを振った。


「他の人には使えません」

「ナユタの存在も並行世界にかんする話も、一般の人には知られてないからか?」


 とんでも機械であるナユタは混濁した人を割り出すことができる。

 多分、その気になれば俺にした方法をこの世のすべての人々に対してとることもできるかもしれない。


 しかし、そこで現れる問題は「なぜそれを知っているのか」ということだ。

 ナユタの存在を知らない人からすれば、自分の秘密がもれていることになる。

 記憶の混濁にかんしてはごまかしがきいても、こればかりはごまかせない。


「はい、もちろんそれもあります。ですが、この方法だと気分がよくないでしょう」

「お前なぁ……」


 ナユタはいたずらっぽい笑みを浮かべて黒板と白衣を消した。

 これで講義はおしまいのようだ。


「さて、なにか質問はありますか、杉山さん」

「いいや、ねぇよ。楽はできないもんだとあらためて知っただけだ」


 ぐはぁとため息をついて杉山は天をふりあおいだ。

 といっても、ここは地下であるため見えたのは蛍光灯がまぶしい天井だけだろう。

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