第一章 重なる世界の後始末

第2話 サラダボウルな朝


 人間は自分のことをどこまで信用して良いのだろうか。


 勘違いもそうだが、意外と記憶違いをするということも多い。

 誤解をすることも、させることもある。

 数え上げればキリがない。

 まったくうんざりさせられる。


 これらの出来事はすべて、俺から俺自身への信用を失わせる。


 たしかなことは、なんなのか。

 俺の記憶はいったいどこまで正しいのか。

 そいつは考えても仕方のない疑問だ。


 歴史の教科書に出てくるような時代には存在したのかもしれないが、今となってはそんなものありはしない。


 並行世界の存在がこの世の〝たしかなこと〟を根こそぎ消してしまった。


 聞くところによると、並行世界というのはこの世界とどこか細部が異なる世界のことであるらしい。

 それはもしかしたら俺がすでに死んでいる世界かもしれなくて、そもそも俺が生まれなかった世界かもしれない。


 その分岐点もたとえばじゃんけんの勝敗とか、昨日学校に行ったかどうかとか、そんな些細なことかもしれない、という話のようだ。

 加えて実在を確認できないことが並行世界の存在を証明している、みたいなわけのわからない話を聞かされた気もするが……まぁ、そんなことはどうでもいい。


 たしかなのは並行世界だろうとなんだろうと、そんなものと衝突すれば世界は間違いなくおかしくなるということだ。

 もちろん、そこに生きる俺だっておかしくなって当たり前だ。


 今抱えている違和感は、間違いなくそれによるものだった。


 寝起きの混乱とは質の違う、もっと強烈な違和感。

 まるで他人の体と入れ替わったような、あるいは他人の部屋で目覚めたような、違和感。


 ゆっくりとまばたきをする。

 ベッドから見える景色は、記憶にある自分の部屋とまったく同じだ。

 その確信と同じくらい違和感がひっかかる。


 きっと並行世界のおれは家具の位置が違ったりするのだろう。

 枕カバーの色や、本棚の本の並びが違ったりするのかもしれない。

 その程度の小さいが、それゆえに無視できない違和感が濃霧のように立ち込める。


 並行世界の衝突によって、今のおれ――つまり木戸博明はこの世界と並行世界の二人分の記憶を持っているのだろう。


 ただし体は一つだ。

 一人分の脳みそに二人分の記憶が詰め込まれていることになる。


 具体的に記憶を探ってみることにしよう。


 〝おれ〟の記憶では、昨日の放課後は部活にいそしんでいる。

 アルバイトなんかしていない。


 一方で〝俺〟の記憶は同じ時間に喫茶店でアルバイトをしている。

 さらに高校で部活に所属した覚えはない。


 まったく同じ時間を、まったく異なる方法で過ごした記憶が同時に存在している。

 夢のように曖昧な感覚ではなく、どちらも昨日の晩ご飯と同程度の存在感を発揮しているから始末におえない。

 ぐちゃぐちゃに混ざりあって、頭の中がサラダボウルのようだった。


『起きてくださーい。起きてくださーい』


 机の上でふるえる携帯電話が可愛らしい少女の声で俺を呼ぶ。

 繰り返しているところから、着信音かなにかだろうか。


 おれはこの声に覚えがない。

 ただ、可愛らしい女の子の声だと思った。


 俺はこの声に嫌というほどの聞き覚えがある。


 相反する印象の混ざったサラダボウルの結論は、とりあえず電話にでることだった。


「もしもし」

『おはようございます、木戸さん』


 聞こえたのはいやに落ち着き払った女の声。

 印象こそ違うが、声質自体はさっきの着信音と同じものだ。


『記憶の混濁はいかがでしょうか?』


 混濁という言葉を〝おれ〟は知らないが〝俺〟は知っている。

 しかし具体的な説明ははっきりしない頭では不可能だった。


 重なった記憶はなにも昨日だけに限定しない。

 覚えているかぎりあらゆる時間での記憶が二通り存在する。

 そのどちらが正しいのか、自分では判断がつかないのだ。


 頭がやけに重く感じる。

 記憶に重量はないはずだが、それでもやはり重い。

 並行世界の自分の分を抱えているせいとしか考えられなかった。


「すこぶる悪い。俺もお前の声も忘れそうだよ」

『それはいけませんね。では、こちらに来ることは可能でしょうか?』

「そっちの言う〝こちら〟がおれにはわからない」

『わかりました。では、吉野さんに迎えに行ってもらうことにしましょう。木戸さんはあまり余計なことを考えずにそこで待っていてください』

「わかった」


 通話の切れた携帯電話をベッドに放り投げてから、ひたいを手で押さえる。


 待っていろと言われたが、そのとおり無心で誰かの来訪を待つことはできない。

 動きのにぶい頭でも気になることは山ほどある。


 特に気になったのは〝ここ〟がいったいどちらにとっての現実なのかということだ。


 たとえ話をしよう。


 火星人は宇宙人だ、と言えば大抵の人は首を縦にふってくれるだろう。

 実際にいるかどうかは重要じゃない。


 しかし、火星人のほうから見れば地球人も立派な宇宙人である。

 スペースシャトルを使って地球人が火星に降り立てば「宇宙人だ!」と火星の人々は思うだろう。


 今の状況はそれと同じだ。


 〝おれ〟から見れば〝俺〟は並行世界の存在になり、その逆もまたしかり。

 どちらがここには存在しない世界の住人なのかを決めるのは、今現存するこの世界と記憶を照らしあわせるほかないだろう。

 つまり地球人なのか火星人なのかを知るのは、この惑星がなんという星なのかを知る必要があるということだ。


 とはいえ、その結論が自分で出せれば苦労しない。

 さて、どうしようかな。


 傾向と対策を練ろうとしたとき、いきなり部屋の扉が勢いよく開いた。

 あまりの勢いに蹴破られたのかと思ったほどだ。


「ヒロ」


 息を切らして入ってきたのは、女子。

 彼女を見たとき真っ先に気になったのは髪の長さ。

 真っ黒な髪が腰のあたりまですとんと伸ばされている。


 彼女は俺が呆然と突っ立っているのを見ると、どこか安心したように一息ついた。


「お前……生きてたのか」


 おれは思わずわけもわからずつぶやいた。

 俺は我ながらアホなことを言っていると後悔した。


「いや、おれが死んでないのか」


 おれは思わず自分の胸に手を当てた。

 そこに銃弾が突き刺さったような記憶がおぼろげにあったのだ。

 どう考えてもそれは現実の記憶ではないだろうが。


「どうやら、大丈夫じゃなさそうね」


 息をととのえた少女はどうやらおれの発言にあきれているようだ。

 俺としてもそれは仕方ないと思う。


 彼女――吉野希美について、俺はよく知っている。

 なにせご近所さんだ。


 学年も同じであれば、小学校から通う学び舎まで同じ。

 いくら寝ぼけようと忘れるほうが難しい。

 しかしおれの影響でそう鮮明に思い出せるというわけでもなかった。


「悪いな、希美。ごらんのありさまだ」

「混濁してるのね」

「かなり」


 おれは混乱していた。

 一方、俺は安心していた。


 この感情の乖離にもっと混乱が深まるが、二重人格というわけではない。

 今は一つのことに対して二つの感想を抱くというだけだ。


 そんなおれ/俺にも総意はある。


「電話で呼びつけたやつのところに連れていってくれ。行けばなんとかなるんだろ」

「そうね。いいわ、行きましょう」


 彼女/希美の服装に合わせてこちらも制服に着替えてから外出する。

 さいわいにも着替えがしまってある場所は並行世界でも同じだったようで戸惑うことはなかった。

 出る前に挨拶をした母親の顔も、記憶と違わなかったことに安堵する。


 不安定な記憶の中で、変化のないものに接するとなんとも言えない安心感がある。

 少なくともそれは間違いのない記憶なのだから。


 見覚えのある町並みを、めったにないくらいじっくりと見回しながら歩いた。

 やや記憶と異なる部分は見つかったが、それでも概ね見知った町だ。

 早朝の空気にも覚えがある。


 黙々と歩く彼女/希美に連れてこられたのはこじんまりとした喫茶店だった。

 時間が早いせいか中に電気はついていない。

 おれはこの建物に入ったことがないが、俺にとってはバイト先だ。


「なにか、思い出すことはない?」

「あんまりピンとこない」

「そう」


 溜め息をついて彼女/希美は持っていた鍵で扉を開ける。

 イスがすべて机の上にあげられた店内を突っ切り、奥へと入っていく。

 厨房や休憩室もあったがそれらに目もくれることなく、重そうな鉄の扉の前へと導かれた。


 見るからに頑強なそれはちょっとやそっとのことでは、どうにかなりそうもない。

 だが、彼女/希美がカードキーをすべらせると扉はあっさりと開いた。

 拍子抜けだ。


「ここからは一人で行って。向こうでナユタが待ってるわ」


 ナユタ。


 誰だそれは、と〝おれ〟は思った。

 ここまで来ればもう問題はないだろう、と〝俺〟は思った。


 疑問と安心が一緒になってこみあげてくる。

 勘弁してくれ、そろそろ本当に頭がパンクしそうだ。


「わかった、行ってくるよ」


 案内役の少女/希美と別れて扉の向こうへ進む。


 中と外では空気の温度が違った。

 わずかにひんやりとする空気が肌にからみつく。

 正面に五人も乗ったらいっぱいになりそうなエレベーターが一基、端には長い下り階段があった。

 迷わずエレベーターのスイッチを押すが反応がない。

 今は稼働していないようだ。


「エレベーター、動いてないんだけど」


 と背後の扉に向かって叫んだ。


 声は反響して小さくなりながら階下へと響く。

 しかし、鉄製の扉を超えることはできなかったようだ。

 あの女子/希美からの反応はない。


「朝からきついなぁ、もう……」


 仕方なく、階段を下りていく。

 どれだけ降りても、まだまだ続きがありそうな長い階段。

 それがおれ/俺を地中深くへといざなう。


 殺風景な景色の連続で螺旋階段じゃないのに酔いそうになった。

 壁に絵でも描けば少しくらいマシになるかもしれない。


 頭のなかで壁に落書きをしながら、階段をひたすら降りる。

 絵は得意じゃないが、妄想でなら一流の画家に負けないくらい意味不明な抽象画を描くことができた。


 そんな絵心が擦り切れるかと思われたころ、ようやく終わりが訪れた。

 階段が終わった先は少しだけ空間が広くなっている。

 動かないエレベータのためのボタンもそのホールにはあった。


 そして、ここが終着点だと示すかのように一枚の扉がエレベータと向かい合うように設置されていた。

 ここが目的地と見て間違いないだろう。


 おれは迷うことなくその扉の中へと立ちいった。

 扉の向こうにはまたも階段、ということはなく蛍光灯がまぶしい部屋がそこにあった。


 広さは学校の教室くらいはあるだろう。

 地下室なせいか窓は一つもないが、机も寝具もあり、冷蔵庫やエアコンといった基本的な家電製品もあった。

 いざというときにはここでしばらく暮らせそうな部屋だ。


 真っ白な電灯がついているが、人の気配はない。

 下手をすると閉じ込められたことを疑いたくなる。


 やれやれと天をあおぐ。

 寝起きに階段を降り続ける運動は、中々にハードだ。

 ベッドもあるし、もういっそここで寝なおしてやろうか。


「朝早くからお手間をとらせました」


 突然、声が聞こえた。


 上を向いていたほんの少しの間に、さっきまで誰もいなかった部屋に少女が現れる。

 肩まで伸びたセミロングの髪は高級な布であるかのように整っており、こちらを見るその大きな目や端正な顔立ちは人形めいた美しさを感じさせる。

 足音一つ、衣擦れの音さえさせずにいきなり現れたのも、そのような印象を抱かせる一因だろう。


 目の前にいるのを確認している今も、少女からは生き物らしい気配も感じない。

 たとえば彼女に「私、実は幽霊なんです」と告白されても、あまり驚かずに「ああ、そうなんだ。よろしく」と挨拶できそうだった。


「私のこと、わかりますか?」

「ナユタだろ」

「木戸さん、自力で思い出せたんですか?」

「いや、全然。でも声がさっき電話越しに聞いたものと同じだったし、ナユタに会えると言って案内されたからな。それくらいは想像できる」


 これで違いますと言われたら、文句を言いたいくらいだ。


「そうですか。その反応を見るかぎり、混濁はかなり進んでいるようですね」


 くるりと反転すると、それに合わせてロングスカートが花のように小さく広がった。


「さて、なにからお話しましょうか」


 ナユタがベッドに腰を下ろす。

 不思議とベッドはナユタの重みに合わせて沈み込むようなことはしない。


「事情はどこまでわかってますか?」

「並行世界がどうのこうの。原因はさっきまでそう考えていた気がするけど、今じゃもうよくわからん」


 〝おれ〟と〝俺〟の境目がだいぶ曖昧になってきた。

 どの記憶がどちらのものだったのか、今や全然判断がつかない。

 暗闇の中で目が慣れていくように、段々と記憶が不安定な状態に順応しているようだった。


「それなら、早めに手をうたないといけませんね」


 ナユタは思案するように視線を上に持ち上げると、すぐになにかを決めたらしく再びこちらに顔を向けた。


「では、少々荒療治ですが、我慢してください」

「なに?」


 彼女の言葉が切れると同時に、照明が消える。


 明るい部屋が一気に暗くなったことで、目がくらんだ。

 ナユタらしき少女の姿は闇の中で浮かび上がるようであったが、それもすぐに見えなくなった。


 話し声もなくなったため、五感が失われたかのような錯覚に陥る。

 その不安感を拭い、また別の不安感を植えつけたのは突然聞こえ始めた激しい雨の音だった。

 ここは室内で、しかもここへ来る道中は雨じゃなかったのに。


 風が空気を裂く音が響く。

 かすかに部屋全体が光り、遠くで雷鳴がとどろいた。

 地面にできた水たまりを車が踏み潰す音までする。


 そのどれが俺を刺激したのか、おれにはわからない。

 あるいは、すべての要素が原因かもしれない。


 急に息苦しくなった。

 冷たい手で首をしめられたように、息ができなくなる。

 環境音をかき消すような荒い呼吸を繰り返しても、苦しくなるばかりだ。


 胸に強い圧迫感を覚えて、思わず手でおさえた。

 しかし指先が震えて思うように動かない。


 心臓が痛くなるほどの動悸がする。


 立っていられない。

 膝が溶けるようにして、その場に崩れた。


 その間にも嵐が迫るかのような強烈な音が鼓膜を揺らし、雷光がきつく閉じたまぶたをこがす。

 雨ではなく身体からにじむ汗が服をぬらした。


 様々な記憶が入り乱れる。

 時系列も脈絡もない、まとまりのない記憶が濁流のように押し寄せる。



 そして〝俺〟は思い出した。

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