腹ペコウサギとお姫様

川上桃園

第1話 雨夜の訪問者

――いつの時代も、真実の愛こそが心ある者を動かすのだ。




 旅人は、雨の日にやってきた。

 トントン、と私の住む屋敷の扉を叩いて。

 そのかすかな音は雨に紛れてしまっても、誰も気づかなくともおかしくなかったのに。

 どうしてその音を聞き取ることができたのだろう。

 どうして他の誰も来ないのだろう。

 どうして私はふと窓の外を眺めようと思ったのだろう。

 そこに明かりを見てしまったら。

 すみません、どなたかおりませんか。

 真夜中にさあ、と静かに降り注ぐ雨の中、男の人の声がして、開けなくちゃ、と思うより先に、駆け出した。

 白いネグリジェにガウンを羽織って、階段を降りる。

 吹き抜けの玄関ホールを抜けて、そっと鍵を開け、ほんのわずか……わずかに残った私の理性は、重厚な木の扉を開け放つことを許さなかった。

 まず目に入るのは、分厚そうな黒いコートのボタン。思ったよりも近くて驚く。

「失礼」

 声が下りてきて、私が目を丸くしている間に、扉の隙間ににゅっと手袋をした手が伸びる。両手で無理やりに扉を押し開く。

 耐え切れずによろめいた私の体は、押し入った男の腕によって乱暴にその場に留められた。

 濡れた手袋で掴まれて、ぞくぞくと悪寒が走る。力が込められているから、痛い。

「い……痛」

 開けたままの扉から、風に吹かれた雨が入ってくる。寒気が手のように足元からなぜ上げたのに、ぶるりと震えた。男の人が持っていたらしいランタンは、狭い周囲をぼうっと照らしながら、ころころと内へと転がっていく。

 男は大きい。小山のように覆いかぶさってくるよう。一歩引こうとしても、逃げられない。

 わずかに見える男の背後には、何があるともしれない暗い闇が茫洋と広がっている。夜の怖さを背負った男……。私の悲鳴さえ、吸い取ってしまった。

 私は愚かだ。夜の訪問者は、不運の来訪と同じなのに。

 雨の夜が私を不安にさせた? 一人で眠れないほどに? それはずうっと昔の、子供の頃から変わらないことだったはず。こんな暴漢を入れるなんて、やっぱり私は愚かだ。

「いやあっ」

 乾ききって、震える唇からやっとのことで絞り出した悲鳴は、男の拘束を辛くも逃れることに成功させた。

 一二歩下がって、ランタンを引っ掴む。

 シルクハットを被った、その顔が明らかになる。赤毛に近い茶髪の、どうということもない男だった。

「だ、誰……」

 ただ、声が上ずるほどに怖そうな男だった。血の気がなくて……石膏像のように、表情を変えない。生きた化石みたい。いや、でもよく見れば、彼の肌は多く見積もっても三十代初めだろうに……まるで皺だらけのおじいさんのように頑迷そうで、老成した雰囲気を持っている。隠棲する賢者のような知性が宿った黒い目がその顔に二つはめ込まれている。。若者の体に、老人の心を持ったような、歪な人だった。

 彼は私の質問に答えなかった。じいっと私を見つめて、次に屋敷を見回した。

「立派なお屋敷だ」

「え、ええ……」

 私の返事に、男の視線はまたも私に向く。

「君の名は?」

 痛いように突き刺さる視線が、胸にも刺さっていく。つきつきと痛む。どうして痛むのかわからない。

 雨が一段と強く、屋敷の屋根を叩いていた。

「シシィ」

 男は何も言わなかった。何か問いたげな瞳をするばかり。

 私は、いつ彼が牙を向けてくるかわからなくて、無性に怖かった。水がびたびたに染み込んだコートから、いつ刃物や銃を出してきてもおかしくない。

 ごくり、と唾を飲む。夜気に晒された体はすっかりと冷え切っていて、ぶるぶると震えが止まらない。

「あ……なた、は……」

 意を決して声をかけたのは、どこかに諦めがあったのかもしれない。沈黙するほどに私の恐怖は増していくような気がした。

「旅人だ」

「え?」

 告げた言葉が理解できなかった。

「旅人だとも」

 名前は決して口にしなかった。どうしてなのか、わからなかったけれど。

「雨に濡れてしまってね。しばらくの間、雨宿りをさせてもらいたい。やめば帰ろう」

 雨が降りやめば、帰ると彼は言っている。本当だろうか?

 どちらにしろ、私が誰かに窮状を伝える前に、私は彼に殺されてもおかしくなかった。私の一挙手一投足を今も目で追っているのだから。

「それなら……応接間の暖炉に、火を入れましょう……。こちらに」

 玄関の扉を、バタン、と閉める。逃げ道を閉ざされたような音が響く。



「私は即興で物語を作るのが好きでね」

 低音で、かすれのない声が、暖炉の火がぱちぱちと弾ける合間を縫っている。

「旅で出会った人々に語るのを趣味にしている。他に聞いてくれる人もないから」

 瞬きするのも惜しい、とでも言うほどに、彼は私を見つめている。耐えきれなくて、俯くほかなかった。

 暖炉の前には二脚の椅子がある。

 真夜中のお客様はロッキングチェアに揺られ、私は書き物机の椅子を引っ張ってきた。

 ぎいぎい、と言う音も交じりながら、私と彼は会話を成立させていた。奇妙なことに。ベッドに入る前は思いもよらなかった。

 濡れきったコートとジャケット、ハットも皺を伸ばして干してある。

 ホットミルクを二人で飲んでいた。用意する間も、彼は私を見張っていたけれど。

 一匙の蜂蜜を加えてかき混ぜていたら、視線が手元に集中したのに気付いたので、彼のものにも一匙垂らしたのだ。彼は何も言わずに、今も時折口に含む。

「そうですか」

 感情を交えない声は、あまりにも素っ気ない。物語を作る人、というのはもっと情感豊かな人だと思っていた。彼のそぶりから、そんな気配は微塵も見えない。むしろ、心の柔らかいところがすべて石化しているという方がまだ納得のできる話だった。

「旅を……なさっている、なら……お話の題材になることも多いのでしょうね」

 疑問を誤魔化しながら言っても、彼は首を振る。

「何も。旅は、風吹きすさぶ果てしない荒野を行くこと。そこには何もないよ」

 はらり、と乾きかけた前髪が額に落ちた。

 なんて、疲れ切った旅人なのだろう……。

 この人は、望まずして旅に出たのかもしれない。

「君に語らせてくれ。時は、有り余るほどあるのだから」

 私は気づけば頷いていた。釣られてしまったのだ……彼に漂うもの悲しい雰囲気に。

「ありがたい」

 彼はぽつりと呟いた。思わず零れた本音のよう。

 初めて、彼が人間だったのだと実感する。

 ロッキングチェアがぎい、と鳴く。名前も知らないままの彼は、背もたれに体重を預けたまま、私に横顔を見せている。血色が良くない。きっと触れたら……凍えるほど冷たいのだろう。

「これは……君のための物語だ」

 私は、そっと旅人を見守り続ける。

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