第9話 全男子部員のご冥福をお祈りします
あの騒がしい朝食の日を境に、俺の平穏無事な「省エネ」生活は、完全に、そして物理的に終わりを告げた。
俺のアパートの場所を完璧に記憶した剣崎先輩は、まるで散歩の時間を待つ大型犬のように、毎朝決まった時間に俺の家の前に現れるようになったのだ。
「おはよう中野! 今日の陣形はなんだ!?」
ドアを開けると、自分で買ってきたらしい真新しい『曲げわっぱ』の弁当箱を両手で差し出してくる。武道家らしく渋い和風の形から入るあたりがこの人らしいが、絶対にウレタン塗装の手入れ方法など分かっていないだろう。
俺はそこに、栄養バランスを完璧に計算したオカズと白飯を詰め込んで手渡す。
そして放課後、部活を終えた先輩が帰宅がてら俺の家に寄り、空になった弁当箱と『食費』を置いていく……という、謎のルーティンが完成してしまったのだ。
ちなみに、この食費についても一悶着あった。
俺としては、自分の食材のついで買いだし、一人分も二人分も労力は変わらないため「一食500円」を提示した。しかし、彼女の無駄なプライド(と俺の飯への異常な評価)がそれを許さなかった。
『否! 中野の技術と、私の胃袋を完璧に満たすこの満足感……1000円でも安いくらいだ!』
『いや、高校生の昼飯に1000円は高すぎでしょ。ボッタクリですよ』
『ならば勝負だ! 私が勝ったら1000円払う!』
普通、金額を下げるために勝負するならわかるが、「払う金額を上げるためにじゃんけんを挑んでくる」という斜め上すぎる展開。俺は呆れながらパーを出した。
結果、先輩の渾身のチョキの前に敗北。
『ふはは! 前腕の筋繊維の僅かな収縮、見切ったぞ中野!』
動体視力で俺の筋肉の動きを読まれたのか、ただの勘だったのかは分からない。とにかく、俺は「毎日手作り弁当を作って1000円を受け取る」という、割の良すぎる専属契約を結ばされる羽目になってしまった。
面倒事はご免だ。誰の特別にもならない。
そう固く誓っていたはずなのに。毎日ピカピカになって返ってくる弁当箱を見るたび、俺の胸の中に微かな達成感と、心地よい疲労感が沈殿していくのを感じていた。
***
「メェェェンッ!!」
――パーンッ! と、竹刀が面を打つ重い快音が道場に響き渡る。
「そこまで! 休憩!」
顧問の声がかかった瞬間、私――剣崎凛は、面を外して小さく息を吐いた。
(……素晴らしい。今日の私は、羽が生えたように体が軽い)
以前なら、この時間帯はエナジードリンクの無理やりな覚醒作用が切れ始め、視界がチカチカと霞んでいたはずだ。だが今は違う。
視界はクリアで、踏み込みの足腰にはバネのような力強さが宿っている。スタミナの切れ目など微塵も感じない。
すべては、あの中野誠也という恐るべき後輩が作り出す、完璧な食事のおかげだ。朝の目覚めから夜の睡眠に至るまで、彼が計算し尽くした栄養素が、一人暮らしで荒みきっていた私の筋繊維一本一本にまで行き渡っているのがわかる。
「ちょっと凛ー! 今日の動き、ヤバすぎない!?」
道場の隅で汗を拭っていると、背伸びをした誰かに背中をバンッと強く叩かれた。
振り返ると、私の胸元付近からひょっこりと顔を出したのは、親友の藤野真衣《ふじのまい》だ。
中学からのクラスメイトで、剣道部で唯一気を許せる間柄なのだが、私《174センチ》と並ぶと完全に『引率の姉と小学生の妹』にしか見えないほど小柄な女子である。
「真衣か。ふふっ、わかるか? 今日の私は、一味違うぞ」
「一味違うっていうか、最近ずっと調子良さそうじゃない。エナドリ特有のあの病的な顔色も良くなったし……なんか、少し肉付きも良くなって健康的な体つきになったっていうか。胸とか、お尻周りとか!」
「なっ……!?」
真衣は遠慮なく私の体をジロジロと眺め、ニヤニヤと笑いながら突っついてくる。私は慌てて竹刀袋で己の体を隠した。
「そ、それは違うぞ真衣! 発育などではなく、ただ中野の作る白米が美味すぎて、つい毎食どんぶりでお代わりをしてしまうからであってだな……っ」
「……は? 中野? 誰それ」
あっ。
しまった、と思った時には遅かった。真衣は獲物を見つけた鷹のように目を細め、至近距離から私の顔を覗き込んできた。
「そういえば凛、最近お昼休みも一人でどっか行っちゃうし……購買の焼きそばパンじゃなくて、すっごい可愛い『曲げわっぱ』のお弁当箱持ってたわよね? しかも、中身は彩り完璧な手作り弁当」
「うっ……! そ、それは……」
「まさか凛、彼氏できたの!?」
「か、彼氏!? ち、違うぞ! ただの利害の一致というか、私が己の肉体改造のために金を払い、私生活から胃袋までを徹底的に管理させている『専属の男』であってだな……!」
「言い訳がヤバすぎるわよ! つーか何その契約、ヒモでも飼ってんの!?」
真衣の驚愕の声は、静まり返った休憩中の道場に響き渡るには十分すぎる声量だった。
「「「――なっ!?」」」
その瞬間。
壁際でぐったりと休んでいた男子部員たちが、一斉にゾンビのように跳ね起きた。
「け、剣崎先輩に、彼氏……!?」
「金を払って肉体改造を……私生活まで管理する『専属の男』……だと……!?」
「嘘だ……! 剣崎先輩は、剣と規律と結婚したんじゃなかったのかよぉぉっ!!」
男子部員たちが次々と頭を抱え、膝から崩れ落ちていく。一部の者は、床をバンバンと叩いて謎の号泣を始めていた。
「お、おいお前たち、どうしたのだ!? 急に集団で腹痛か!?」
「凛、あんた自分の隠れファンクラブの規模を舐めすぎよ……完全に道場が絶望のどん底に叩き落されてるじゃない」
頭を抱えてため息をつく真衣の横で、私は突然集団パニックを起こした男子部員たちを、ただただ呆然と見下ろすことしかできなかった。
***
「……へっくちゅっ」
同じ頃。平和に読書をしていた俺は、突如として襲いかかってきた悪寒に、盛大なくしゃみをぶちかましていた。
(……なんだ? 誰かが俺の平穏を脅かす呪いでも吐いているのか……?)
俺はジャージの襟を立て、誰の特別にもならないはずの静かな午後を、ただ漫然とやり過ごしていたのだった。