対馬編も終わりますので、少し朝鮮出兵に関連した話しを少しさせてください。
まず、本作に登場する御影は、史実そのものではありません。
歴史上の人物が、後世にどう語られ、どう記録され、そして使い手が何をその人物の本質として掴んだか――そこに応える存在です。
だから同じ人物を呼んでも、使い手によって強さも戦い方も変わります。
猛将として見るか。守将として見るか。統率者として見るか。あるいは、時代に翻弄された敗者として見るか。
その前提になる「歴史そのものも、今の感覚で単純には読めない」という話を少し書期待と思いますので、よろしければお付き合いください。
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私たちは、過去の戦いをつい「日本対外国」「国内対国外」という形で見がちです。
ですが、戦国末期から近世初頭にかけての人々が、今の私たちと同じ国家観で生きていたかというと、そう単純でもありません。
現代のような、全国民が同じ国家意識を共有する形は、明治以降の近代国家化の中で制度や教育とともに強く整えられていった部分が大きいです。
もちろん、それ自体が悪いわけではありません。
列強の時代に飲み込まれず、生き残るためには必要な選択でもありました。
ただ、それ以前の時代の人々を、その感覚のまま見ると、少し見誤ることがあります。
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当時の人々にとって重かったのは、国名よりも土地、家、港、交易圏、主君、商いだったかもしれません。
たとえば九州の武将にとって、遠い東北の武将より、海を越えた対岸の人々の方が現実感を持つことも不思議ではありません。
対馬、肥前、薩摩、豊後――海に開かれた土地では、朝鮮半島との往来、交易、情報の流れは決して遠いものではなかったはずです。
今の地図で見れば外国でも、当時の感覚では「海の向こうの隣人」に近い部分もあったのでしょう。
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戦国時代、日本は鉄砲を大量に使いました。
ですが本当に重要だったのは、鉄砲本体より、火薬原料や鉛、継続して戦うための交易路でした。
そのため海の窓口を持つ土地は強く、そこでは信仰、軍事、外交、商業が複雑に絡み合います。
綺麗な英雄譚だけでは語れません。
人が海外に売られたこともあれば、取り返すために戦争が起きたこともあった。
奪われた技術もあれば、新たに花開いた文化もあった。
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各地の焼き物文化も、そうした歴史と無関係ではありません。
日本各地の陶芸には、朝鮮半島との技術交流、戦乱による移動、人の縁が多かれ少なかれ関わっています。
そこには、強制移住だけではなく、登用、保護、生活再建、子孫による再出発など、一言では括れない事情があったはずです。
今も続く窯元や家系があるからこそ、軽々しく言い切れない話でもあります。
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朝鮮出兵についても同じです。
征服戦争として語られることが多い出来事ですが、それだけで全てを説明できるほど単純でもありません。
戦場では、日本側に協力した朝鮮出身の人々もいました。
逆に、朝鮮側で戦った日本出身の人々もいました。
国より家族を守る者。
土地を守る者。
商いを守る者。
その場を生き延びるために動く者。
人は、旗の色だけでは動きません。
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史料には勝者の都合が残ります。
敗者の弁明も残ります。
後世の理想や物語も混ざります。
だから、「本当は誰が善で、誰が悪か」と簡単には決めきれません。
本作の御影も同じです。
武勇だけを見れば英雄。
民の側から見れば苛烈な支配者。
外交から見れば現実主義者。
敗戦から見れば愚将。
同じ名でも、何を見るかで立ち上がる姿は変わるでしょう。
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主人公たちが探しているのは、単に武勇に優れた強い名前ではありません。
何を強さと呼ぶのか。
何をその人物の本質と見るのか。
歴史は、覚えるほど単純ではなくなる。
この作品は、そういう話でもあります。
最後に、前回の杜さんに続いて倉野さんバージョンを。
(次回があったら、杜さんの槍バージョンを作りたいですが、予定は未定です。)