私の書くものをAIに読ませると、エッセイ風小説と言われる。
これはいいねという言葉ではなく、圧倒的に主人公の活躍のない、平板な物語だという意味で。そうなんだろうなーと思いつつ、私が小説を読む上でノイズに感じてしまう「突飛な行動力」や「前後のわかりやすい変化」こそが小説と言われているようで、不思議な気持ちになる。そういう瞬間を捉えてこそ読む価値があるのです、と言われても、他人に興味がないので、主人公が受け身だろうがどう変わろうがどうでもいいのでは?と思ってしまい、心が暇人の私は読める言葉で書かれていればウェルカムしてしまう。
でもそれって読み手のことを考えてないってことで、良くないなぁと、AIちゃんに指摘されて少し反省いたしました。
いやしかし、思うところを何かしらで出力したいというのが私の創作のモチベーションなので、たしかにエッセイなのかもしれない。そんな思考する私の中に、行動→結果のストックが少なすぎるんですよね。それに関する思いがないし、なんなら行動をとって失敗した記憶が強すぎて、行動したくないとすら思っている。のかもしれない。成功した結果というのは、私の意識から消えてしまうのだなぁと、創作物を見て自己分析をするわけです。でもこういう気づきも、知的な興味であって行動の結果ではないから、いまひとつ小説として作用してこない。その結果を踏まえて行動して、ようやく小説になる、ものらしい。わかってきたぞ、AIちゃん。
なんか躍動的なものを書けばいいのでしょう。わかります。わかりました。
あ、ノイズといっても読んでて不快というわけではないんです。ただただ、私とは違う人格だなというのを再確認するだけで。自分に近い内面を描写してくれてると余計に、私も変わらなきゃ!ではなく、あ、こんな行動力もある人なのねぇとフィクションさを思い出す、みたいな。はなからフィクションなので、マイナスには作用してません。
そう、エッセイ風というならエッセイを書いてやろうじゃないかと思ったんだけど、何書いていいかわからないのが正直なところで、エッセイの新規ページを立ち上げて、黙っている。