# 人図魔駅
夕凪はスマートフォンの画面を凝視しながら、ため息をついた。都市伝説「人図魔駅」──インターネットの闇深くに潜む、実在しないはずの駅の噂。誰も降りたことがないのに、時折、深夜の電車が停車するという。そして、そこで降りた者は二度と戻ってこない。
「でも、調べる価値はあると思うんだ」
勇斗がそう言って背中を押した。彼は夕凪の幼なじみで、オカルト現象に目がない。一緒に来てくれたのは、柚菜と幻。柚菜はカメラを首から下げ、幻は常に冷静な観察者だ。
「でもさ、そんな駅、本当にあるの? 単なるデマじゃない?」
柚菜が不安そうに言うと、幻が淡々と答えた。
「存在の有無を確かめるのが、我々の目的だ。ただし、リスクは承知しておくべきだろう」
午前一時過ぎ、最終電車に乗り込んだ。車内はがらんとしており、彼ら以外の乗客は数人だけ。皆、疲れた顔をしてうつむいていた。
電車は暗いトンネルをくぐり抜ける。ガタン、ゴトンという音が、不気味なリズムを刻む。
「ねえ、ちょっと…頭がクラクラしない?」
夕凪が呟くと、勇斗も額に手を当てた。
「俺もだ。気のせいか、車内の空気が重い」
柚菜がカメラを構え、ファインダーを覗き込む。
「あれ? みんな、ちょっと変だよ…」
彼女の指さす先で、他の乗客たちが次々と席から滑り落ち、床に倒れていた。まるで操り人形の糸が切れたように。
「まずい…逃げよう…」
幻が立ち上がろうとした瞬間、自身も膝から崩れ落ちた。夕凪の視界がゆがみ、耳鳴りが響く。勇斗の叫び声が遠のいていく。
「夕凪…!」
すべてが真っ暗に沈んだ。
***
冷たい床の感触で、夕凪は目を覚ました。頭痛が脈打ち、記憶がぼんやりしている。周りを見渡すと、勇斗、柚菜、幻が倒れていた。彼らを揺さぶり起こす。
「みんな、大丈夫? どこか痛む?」
勇斗がゆっくりと起き上がり、首を振る。
「ああ…でも、ここはどこだ?」
彼らがいるのは、見知らぬ駅のホームだった。白いタイル張りの壁は所々ひび割れ、蛍光灯がちらつきながら、不気味な明かりを放っている。空気は冷たく、湿っている。駅名標には、はっきりと「人図魔駅」と記されていた。
「まさか…本当に来ちゃったのか」
柚菜の声が震える。幻が周囲を警戒しながら言う。
「電車はもういない。我々だけが取り残されたようだ」
ホームは長く、両端は闇に飲まれている。唯一の明かりは、改札口と思われる場所から漏れる、ぼんやりとした黄色い灯りだけだ。
「あそこに誰かいる」
勇斗が指さす。改札の向こう、影の中に、一人の人影が立っていた。駅員の制服を着ているが、頭には深く被った黒いフードがかぶせられ、顔はまったく見えない。その人物は動かず、ただ彼らを見つめている。
「すみません! ここはどこですか? どうやって帰ればいいんですか?」
夕凪が声をかけるが、無反応だ。フードを被った駅員は、ゆっくりと手を上げ、ホームの反対側、闇へと続く階段を指さした。
「あの階段から出られるってこと?」
柚菜が尋ねるが、駅員は相変わらず黙ったまま。指さす手は微動だにしない。
「仕方ない。行ってみよう」
幻が先頭に立つ。四人は固まって、駅員が示す方向へ歩き出した。背中に、じっとりとした視線を感じる。振り返ると、駅員は依然として同じ場所に立ち、彼らを見送っていた。その姿が、次第に闇に溶けていく。
階段は古く、コンクリートが剥がれ落ちている。一段上がるごとに、冷たい空気が厚くなる。上りきった先は、地上の出口ではなく、さらに長い地下道だった。壁には老朽した配管が這い、水滴が規則正しく落ちる音が響く。
「ここ、どこなんだろう…普通の駅の構内じゃないみたい」
勇斗が懐中電灯を取り出すが、光は闇をわずかに照らすだけだ。
突然、背後から重い足音が響いた。トン、トン、トン…ゆっくりと、しかし確実に近づいてくる。
「誰か来る…」
柚菜が夕凪の袖を掴む。四人は息を殺し、壁に身を寄せた。
足音は彼らのすぐ前で止まった。闇から、先ほどの黒いフードの駅員が現れた。間近で見ると、そのフードの奥は真っ暗で、顔があるのかすらわからない。駅員は再び手を上げ、今度は地下道のさらに奥を指さした。
「どういうつもりだ? どこへ行けと?」
勇斗が詰め寄るが、駅員は無言のまま、指を動かさない。
「彼…いや、それは、意思を伝えようとしているのか? それとも…」
幻が分析しようとするその時、駅員のフードの奥に、かすかに赤い光が二つ、ぽつりと灯った。まるで目のように。
「っ!」
夕凪が思わず後ずさる。駅員はゆっくりと首を傾げ、その「目」を彼らに向けた。そして、低く、軋むような声を発した。言葉ではない。機械の故障音か、生き物のうめき声か。
その声を聞いた瞬間、四人の頭に、激しい痛みが走った。夕凪は耳を押さえ、うずくまる。視界にちらつく映像──知らない駅のホーム、倒れる人々、黒いフードの群れ。
「あれは…記憶? 違う…誰かの記憶が、流れ込んでくる…!」
幻が苦しそうに呟く。駅員は一歩、また一歩と近づく。フードの奥の赤い光が、不気味な輝きを増している。
「逃げろ! こいつから離れろ!」
勇斗が叫び、夕凪の手を引く。四人は地下道を駆け出す。後ろから、あの軋む声と、複数の足音が追ってくる。振り返らずに走る。曲がりくねった通路、分岐点、行き止まり。
「あっちだ!」
柚菜が開いているドアを指さす。中は小さな機械室のようで、計器類が並んでいる。四人は飛び込み、ドアを閉める。勇斗が近くにあった棒でドアの取っ手を押さえつける。
外から、ドアを揺らす音。引っ掻く音。しかし、しばらくすると、音は遠のいていった。
「…行ったかな」
息を整えながら、夕凪が呟く。
「ここはどこなんだ?」
柚菜がカメラのファインダーを覗き、室内を写す。すると、モニターに映った映像が、実際の風景と微妙に違う。壁のひび割れの形、床のシミ…それが、ゆっくりと動いている。
「これ…」
幻が一つの計器に注目した。それは駅の運行盤のように見えたが、表示されている駅名はすべて「人図魔駅」。到着時刻、出発時刻は、すべて「??:??」。そして、一番下に、小さく表示された一行。
『乗車者数:4名 降車者数:0名』
「…まだ、誰もここから出られたことがない、ということか」
勇斗の声が沈む。
突然、室内のスピーカーから、あの軋む声が流れ出した。今回は、かすかに言葉らしきものが混じっている。
『…来た…者…は…帰…せ…ない…』
『…永遠に…駅の…一部に…』
夕凪はドアに耳を当てる。外の気配は消えている。しかし、それは安心材料ではなかった。
「外は静かすぎる。あの駅員たちは、どこに?」
彼女が言った瞬間、天井の換気口から、黒い煙のようなものがゆっくりと流れ込んできた。煙は床に広がり、形を変えていく。それは、無数の小さな手の形になり、彼らの足元に絡みつこうとする。
「ここにいてはダメだ! 外に出よう!」
幻が叫び、ドアの棒を外す。勇斗がドアを開ける。外の地下道は、先ほどよりも暗く、静かだ。しかし、闇の奥から、複数の赤い光が、ちらちらと揺れている。
「あっちにも、こっちにも…」
柚菜の声が詰まる。黒いフードを被った駅員たちが、四方からゆっくりと近づいてくる。十人? 二十人? 数え切れない。彼らは一糸乱れぬ動きで、包囲網を狭めてくる。
「どうしよう…出口がわからない…」
夕凪が必死に周囲を見渡す。すると、遠くの壁に、非常口を示す緑の灯りがかすかに見えた。
「あそこだ! あの非常口へ!」
四人は走り出す。駅員たちの動きは速くないが、確実に彼らの進路を塞ごうとする。幻が倒れかけた配管を蹴り、後続の駅員たちの足を止める。
非常口のドアは重く、錆びついている。勇斗と夕凪が力を合わせて押す。ギシリと音を立てて、ドアが開く。
その先には、また階段が続いていた。しかし、この階段の上には、薄明かりが見える。
「地上だ! あれは月の光かもしれない!」
希望に駆られて、階段を駆け上がる。一段、また一段。後ろから、駅員たちの足音と、軋む声が追ってくる。
階段を上りきった先は、廃墟のような駅舎だった。ガラスは割れ、椅子はひっくり返っている。しかし、正面の大きなガラス戸の向こうに、夜の街の灯りが見える。
「出口だ!」
柚菜が叫ぶ。四人は出口へ向かって走る。
その時、背後から、最初に出会った駅員──あの一人の駅員が現れた。彼は他の駅員たちよりもゆっくりと、しかし、確実に彼らの前に立ちはだかる。フードの奥の赤い光が、激しく輝いている。
『…まだ…』
軋む声が直接、頭の中に響く。
『…お前たちは…気づいていない…』
夕凪が立ち止まる。
「気づいていない? 何が?」
駅員はゆっくりと手を上げ、彼ら自身を指さした。そして、次に、駅舎の曇ったガラス戸を指さす。
勇斗がガラス戸に近づき、自分の姿を映そうとする。ガラスには、街の灯りがぼんやり映っている。しかし、彼自身の姿は、そこにない。
「…え?」
彼は手を振る。ガラスに映るのは、街の灯りだけだ。
柚菜も幻も、ガラスに自分の姿が映らないことに気づき、凍りつく。
夕凪がゆっくりと自分の手を見る。透き通っているわけではない。触れることもできる。しかし、ガラスには映らない。
駅員が再び声を発する。今回は、少しだけ明確な言葉だった。
『…お前たちは…もう…あの電車で…倒れた…』
『…ここに来たのは…体ではない…』
『…気づけ…人図魔駅は…迷い込んだ魂を…繋ぎ止める駅だ…』
四人は言葉を失った。記憶がよみがえる。電車内でクラクラし、倒れたこと。そして、目が覚めた時には、もうこの駅にいたこと。
「じゃあ…私たちは…」
幻が呟く。
駅員はうなずくような仕草をした。
『…現実では…まだ…昏睡状態か…あるいは…』
『…ここから出る方法は…一つだけだ…』
『…自分がここにいないと…気づくこと…』
『…そして…帰りたいと…強く願うこと…』
駅員たちの包囲網が、少しずつ緩む。彼らは、道を空けた。
ガラス戸の向こうの街の灯りが、優しく揺らいで見える。
夕凪は勇斗の手を握り、柚菜と幻を見つめる。
「みんな…帰ろう。本当の場所に」
四人は目を閉じ、自分がここにいないこと、帰りたい場所があることを強く思い描く。
ガラス戸の向こうの光が、次第に強くなる。駅員たちの姿が、闇の中に溶けていく。
『…さようなら…迷い子たちよ…』
軋む声が、最後の言葉を残して消えた。
***
夕凪が目を覚ましたのは、病院のベッドの上だった。白い天井、消毒液の匂い。傍らには、心配そうな家族の顔。
「夕凪! 目が覚めたのか!」
彼女はゆっくりと首を動かす。体中がだるい。記憶が混乱している。
「勇斗たちは…?」
看護師が優しく微笑んだ。
「ご安心ください。他の三人の方も、無事に目が覚めました。同じ電車で倒れられたんですよね。一時は危険な状態でしたが…奇跡的に全員回復の方向です」
夕凪はほっと息をつく。窓の外には、明るい昼の光が差し込んでいる。あの冷たい駅の空気、闇、黒いフードの駅員たちは、夢だったのだろうか?
しかし、彼女がベッドの脇の小さなテーブルに目をやると、そこには見知らぬものが置かれていた。駅の改札で切られる、小さな硬券の切符の切れ端。それは色あせている。
人図魔駅
と書いているはずなのだがどうしても読めない
切符の端には、小さな黒い糸くずが、ほんの少しだけ絡まっていた。
夕凪はそれをそっと握りしめ、窓の外の光を見つめた。
もう二度と、深夜の最終電車には乗らないと、心に誓いながら。
(了)