さて皆さま、こんばんは。
最近、冷蔵庫の中のプリンが消えるたびに「怪異か、家族か、それとも私の記憶力の終焉か」を真剣に考える改易庇護之介です。
もし怪異なら、まだ風情があります。
家族なら会議です。記憶力なら超会議です。
そんな訳で今回も、例の「小説を9カテゴリに分解して、何にどれだけ文字数を使っているかを見る」
という、地味なくせに妙に楽しい茶番分析の続きです。
今回は過去10年以内という縛りをなくし、かなり昔の作品にまで手を伸ばしてみました。
月曜から更に増えて全96作品。机の上には蛍光ペンが散乱しております。
こりゃあ……着色料の相場が荒れるで笑
しかしここで、とんでもねぇ問題が発生です。
最初は、推理小説も他ジャンルと同じように、ある程度は
「このへんに重心があるな」
「こういう偏りがあるな」
という平均配分・中央値配分が見えてくるんじゃないかと思っていたんですよ。
ところが、これがどうも綺麗にまとまらない。
もちろん数字は取れます。
だけど、同じ作者、同じ探偵の作品を並べても、偏りどころか、しっちゃかめっちゃかです。
しかしそこは、かしこの最強あたい。
一つの仮説を思いつきました。
「これジャンルの傾向というより、探偵役や刑事役の設定に引っ張られてないかしら?」
という仮説です。
たぶん推理小説って事件の型そのものよりだけど、探偵役・刑事役と犯人役の知能差、知性差、認知の差みたいなものが、文字数配分にかなり影響しているんじゃないかと。
だって、あたい最強かしこだから。
要するに、同じ死体が転がっていても誰がそれを見るかで、小説の紙幅の使い方が変わる。
事件そのものより、登場人物の設定による差異の方が大きいんじゃないか、ということです。
例えば、探偵役がかなり頭の切れる天才型だった場合。
この人は、違和感を拾う速度が速い。
証拠から意味を引き出す速度も速い。
会話の端からでも本質を抜く。
そうすると、同じ情報量でも局面が一気に動きやすい。
ただし犯人役も同じく頭が切れる天才型だった場合と、衝動的な犯人だった場合では、盤面の配分にかなり差が出てきます。
逆に探偵役や刑事役が現場感覚寄りだったり、人間観察寄りだったり、感情の揺れを重く受けるタイプだったりすると、同じ事件でも、そこに至るまでの手触りが変わります。
手がかりをすぐ論理へ変換するのではなく、人間関係や空気や対話の熱を経由して進む。
その分、別のカテゴリに文字数が流れる。
さらに、犯人役との知能差も効いてきます。
犯人が知的で、トリックや攪乱の設計に長けているなら、探偵役の思考もそれに応じて変わる。
逆に、犯人が情動型、衝動型、あるいは社会的に追い詰められた結果として犯罪に至るタイプなら、事件の見え方そのものが変わってくる。
つまり推理小説では事件そのものの難度だけじゃなく、探偵役と犯人役の頭脳戦の距離感が、かなり文字数配分を左右しているんじゃないか、ということです。
これ、個人的にはかなり面白いと思います。
推理小説って、表向きは「謎を解くジャンル」です。
でも実際にはかなりの割合で、「どの頭脳で、その謎をどう見るか」を読むジャンルでもあるのではと。
だから、同じ作者でも作品ごとに数字が変わる。
それは単なる作風のブレではなく、探偵役や刑事役、そして犯人役の知能差が変われば、小説の設計そのものが変わるからなのかもしれません。
ここからもう一つ、考えたことがあります。
これはかなり慎重に言いたいんですが、昨今の推理小説、特になろうやカクヨムも含めて見ていると、どうも天才型の探偵役が多く見えるんですよね。
もちろん、これは私の選書が偏っている可能性も大いにあります。
あたいの本棚は、あたいの性癖でできているので(ド変態)
ただそれでも今見ている範囲では、かなりそう感じます。
では、なぜ天才型が多く見えるのか。
たぶん単純に「書きやすいから」だけではないと思うんです。天才型の探偵役って、キャラとして非常に立てやすい。
頭が切れる。一歩先を見ている。
周囲が気づかない違和感に気づく。
そしてそれを、涼しい顔で、皮肉混じりに、あるいは圧倒的な自信で言語化する。
これ読者にとってかなり分かりやすい魅力です。
何がすごいのかが一目で分かる。
何を楽しめばいいのかも掴みやすい。
要するに、キャラの即効性が高い。
特に今の読書環境って、最初の数話、最初の数ページで、
「この作品の面白さ、どこ?」
が伝わらないと、なかなかしんどいところがあります。
そういう意味では、天才型の探偵役はかなり相性がいい。
なので、今の連載環境やWeb小説環境も含めると、天才型が増えて見えるのは自然なのかもしれません。
ただ一方で、昔の推理小説、あるいは硬質寄りの推理小説を読むと、少し違う印象もあります。
そちらは、探偵役の天才性そのものを見せるというより、
トリックの妙。答えに至るまでの苦悩。
推理の筋道そのものによるカタルシス。
そういったものに、読書の重心が置かれている感じがあるんですね。
言い換えると、今の一部の作品では、
「この天才キャラがどう事件を切るか」
が面白さの前面に出ている。
それに対して、過去の一部や硬質寄りの作品では、
「この謎がどう組まれ、どう解かれ、そこへどう苦しみながら至るか」
の方が前に出ている気がします。
さらに、もっと偏見を交えて言うと。
「……推理作家って、もしかしたらかなりやりたい放題じゃね?」
視点変換の妙だけじゃなく、資料の提示、時刻表、地図。
そして挙げ句の果てに、資料そのもので嘘をつく。
もはや人の所業じゃねぇな! って作者もいます笑
もちろん、ここも断定はしたくありません。
世代で綺麗に切れる話ではないし、今の若い読者の中にもトリックの妙を愛する人は普通にいる。
逆に昔からの読者でも、キャラ推理が好きな人は多いはずです。
なので、これはあくまで柔らかい仮説です。
そのうえで言うなら、今の若い推理小説読者層の一部には、推理の妙や答えに至る苦悩をじっくり読み込むことよりも、天才探偵・天才刑事というキャラクターそのものを楽しむ方向への嗜好が、やや強いのかもしれない。
一方で、過去の推理小説ファンや硬質寄りの作品を好む読者層の一部には、トリックの美しさや、そこへたどり着くまでの思考の苦悩を楽しむ傾向が、やや強いのかもしれない。
つまり、今の推理小説の一部では、
「誰が解くか」
が前に出やすい。
昔の、あるいは硬質寄りの推理小説の一部では、
「どう解くか」
や、
「どう書くか」
が前に出やすい。
だから今回は、あえて数値は出しません。
出しても、自分自身、説明がつかないことばかりなので。笑
推理小説は、単純な平均値だけでは読みにくい。
ジャンル全体の骨格というより、探偵役・刑事役と犯人役の知能差。読者が何を楽しみたいか。
そして、作者の性格の悪さ。
そのあたりで、かなり数字が揺れてしまう。
ここがたぶん、推理小説の面白いところなんだろうと思います。
今回は、そんなふんわり、わたあめみたいな仮説のお話でした。