こんばんは、島﨑です。
全然小説を更新せず、近況ノートばかり更新してすみません。
別にザイデンハーフェンはバタヴィアではないので、そこまで歴史的事実に即していなくてもいいわけですが、あまりにも突飛なことを書くわけにはいかないので改めて資料を集めています。
前回の近況ノートで紹介したレオナルド・ブリュッセイ「オランダ東インド会社とバタヴィア(1619-1799年)ーー町の崩壊と原因について」(1983)は、「19世紀初めにダーンデルス(H. M. Daendels)将軍の当地の時期に、オランダ人が生き残るために少し高いところにあるウェルトフレーデンへと飛び出さざるをえなかった原因、とりわけバタヴィア市の非衛生的な諸条件の由来を詳しく検討するものである」そうです。
ダーンデルス将軍がバタヴィアに到着したのは1808年1月5日。つまり、オランダ東インド会社が解体されたあとのことです。
ブリュッセイ論文によれば、1619年にジャカルタ領主の宮廷が廃墟となり、そこにバタヴィア市が建設される。この城壁都市は1660年までには形態を整える。バタヴィア市の後背にはオンメランデン(Ommelanden)が広がる。
1628年から2年にわたってマタラム軍がジャカルタ市の奪取を試みるも失敗。この後、約50年はジャカルタの元来の住民が避難したバンテンがオンメランデンを脅かし続けます。1639年にバンテンとの休戦が成立し、城壁のすぐ外側に市場用野菜畑が作られるが、従事した中国人栽培者はバンテンの放浪者たちに脅かされます。
1656年に再びバンテンとの戦争が勃発。町のすぐ外の製糖場やレンガ工場がことごとく破壊されます。政庁は城壁内のジャワ人、アンボン人、バリ人などのインドネシア系諸民族を町から追放し、かれらは城壁外のおのおののカンポン(Kampong)に移住しました。そして、町から1時間の距離のところに要塞が設置されます。東の An
tjol、西の Anke、南の Jakatra・Wilgenburg・Rijswijk。これが第1の防衛線となりました。
1660年以後、ヨーロッパ人にオンメランデンの土地が払い下げられるようになります。かれらは土地を中国人に小作に出すか、奴隷を利用しました。町から離れたところでは、カンポンに住む原住民のカピタン(首長)に発給された土地もあります。バタヴィアしないにはヨーロッパ人、混血人、中国人、その他若干のアジア人少数民族が住み、インドネシア系諸民族が町のすぐ外のカンポンに住みました。
1680年には第2の防衛線が完成します。西の Tangeran、東の Tajongpura、南の Meester Cornels・Buitenzorg です。これによりバタヴィア市から2つの同心円的防衛線ができました。町と第1防衛線の間は市場野菜用に、2つの防衛線の間は輸出用作物に当てられることになりました。
1680年から1720年の時期にオンメランデンには砂糖栽培ブームが訪れました。製糖が大量の薪を必要とすることから森林が破壊され、製糖場が川の近くにあることから川の水が汚濁。砂糖開発のためにオンメランデンの雨水保持能力が奪われ、乾燥し、1720年代後半に水不足が明瞭になりました。
1732年にオンメランデンの灌漑システムの衰弱による水不足を解消するために掘られたモーケファルート運河の影響で、町のまわりに大きな水たまりができ、マラリアが猛威を振るうようになりました。これにより豊かな市民たちは衛生的なウェルトフレーデン地区に移住し始めました。
……と、こんな感じでバタヴィアは衰退し、崩壊していったようです。
舞台となる1794年の様子はまだよくわからず。
布野修司『カンポンの世界』という本がるようなので、そちらを入手してみようと思います。
ではまた。長くおまたせしてしまうと思いますが、「ザイデ」更新をお楽しみに!