『三体』シリーズを読んで中国SFの凄まじさに触れ、大興奮しておりました。
『バベル』は三体ほど小説の構成が複雑ではなく、真っ直ぐに物語を追うことのできるシンプルな作品です。ですが、SFファンタジーと呼ぶのが畏れ多いほど、この作品を著するにあたりどれだけの言語や世界史(主に中国・インド・イギリス)と向き合われたのだろうかと感嘆しました。フィクショナルな世界を組み立てるにあたり、時代の背景と史実を巧みに組み込み違和感を感じさせない筆致を導くのにどれだけのご苦労があったでしょう。
本来、知とは権力に直結するが故にそれを得ようとする者は否応なしに権謀作術に巻き込まれるわけですが、言語学を突き詰め(この作品内では比喩ではなく)銀の延棒を使っての魔法を修めようとする若い学生たちが直面する世界の過酷さに対して読者も問われるのです。
「世界の一員として生きる時、あなたは従属させられる側なのか、それ以外の道を選べるのか」と。
多言語を知り、使いこなすことができてもなお、私たちは皆「生まれ」を選ぶことはできず、それは一生自分を表すアイデンティティの一つとして深く刻まれます。
私には海外駐在中に他国で生を受けて育った友人や、現在海外でその国の伴侶と巡り合い子育てにてんてこ舞いの友などがいます。彼らにとって「日本」はアイデンティティかもしれませんが、生まれ育った環境や生活している中で順応せざるを得ない文化慣習の違いから日本を母国以上の意味を持たずして生きている彼らにとって『バベル』の登場人物たちの誰に己を投影できるのか、そして物語の中で彼らが選ばざるを得なかったそれぞれの行動に首肯を伴うのか…。
もしこの作品を読んでくれたなら、いつかそれらをたずねてみたいと思いました。