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ドゼとエジプトの少年たち

下の絵は、ドゼが亡くなってから、ドゼと親交のあった画家、アッピアーニが描いたものです。「正義のスルタン」と言われたエジプト遠征時代をイメージしています。

画像ではわかりにくいのですが、手前の少年の肌の色の方が薄いので、こちらがマムルークルのイスマイルだと思われます。その奥がバキルということになります。

実際にドゼをモデルにしたり、面識があった画家がドゼを描いた肖像画は何種類かあるのですが、どの絵も全く印象が違います。その辺りも、ドゼの多面性を表しているような気がします。

なおどの画家も、両頬の傷は描写していません。

7件のコメント

  •  どうも。投稿ご苦労様です。
     イスマイルがアラブ人なら、肌の色はドゼと変わらぬはずで、また鼻の高さもそう変わらぬはず。いや、画法の照明テクニックだ、顔の向きが違うからとの画家の弁明も聞こえて来そうですが。サイードのオリエンタリズムを持ち出すのは野暮ってものですが、しかし、ここまでその好例を見せられると、何とも、ですね。
     でも、ドゼは美男だったのですね。なるほど、マダムたちから誘われるはずだ。
  • こちらまでコメント、ありがとうございます。

    この絵ですが、私も実物は見たことがないのですが、購入した本の表紙絵に採用されており、それを見ると、バキルとイスマイルとは肌の色に明らかな差があります。また、光がドゼの顔に向かって射しており、二人の少年は影の位置に配置されています。

    と、おっしゃりたいことはこういうことではないのですよね?

    オリエンタリズムといえば聞こえはいいのですが、人種差別的な視点があったかどうかにつきましては、画家当人にはなかったと思われます。革命は差別を否定しており、ボナパルトがこれを完全に覆すのは、第一執政として地歩を固めたからです。ブログにまとめてありますので、よろしかったら。
    https://serimomoplus.blog.fc2.com/blog-entry-110.html

    この絵は、ドゼが亡くなってすぐに描かれたものです。ボナパルトはマレンゴの功労者の彼を良く描くよう命じたはずです。また、生前のドゼと面識のあった画家の哀悼の気持ちも表れていると思います。(決して、実際よりイケメンに描かれている、と言っているわけではありません "(-""-)" )

    肖像画では、Jean-Urbain Guérin、André Dutertreが同時代人で、本人をモデルにして描いています。そちらもご覧になったら、ご意見が変わるかもしれません。日本語ではゲームの検索結果が多いので、Desaix de Veygoux で画像検索されるよろしいかと。

    なお、パリでは彼は隠者のような生活をしていて、高名なマダムのサロンに誘われても腰を上げなかったと、副官のサヴァリが不満を漏らしていました。
  • 返信ありがとうございます。

     せりもも様のブログを読ませていただきました。そうか、フランスといえば人権宣言かとか、政治は王党派と共和派の対立が激しい――結果、とても分かりにくい――と想い出したりしました。

     サイードは主著「オリエンタリズム」上巻の中(P188~219)で、ナポレオンのエジプト遠征を論じていますので、せりもも様にも興味深いかも? 好き嫌いのはっきりする論者だと想いはしますが。

     絵についていえば、『ヨーロッパ人(ドゼ)が主人で、オリエント人(後ろの現地ムスリム2人)が従属者』という、まさにサイードの主張するところのオリエンタリズムに見事なまでに当てはまるものだと想います。
     といって、画家が人種差別主義者と言いたいのではありません。ただ、画家は、なぜ、ドゼ1人を描かなかったのか?後ろに控える者がなぜ仏国人でなく現地人なのか?なぜドゼは横を向いているのか?なぜ、ドゼは文書を持っているのか?これが写真でなく絵画である以上、全てに理由があるはずです。

     とはいえ、上のコメントにも書きました通り、オリエンタリズム云々を持ち出すのは野暮な話です。私自身、モンゴルの戦記を書いており、西域側からすれば、これが侵略行為に当たるは明らかです。また、元寇を想えば、モンゴル軍など唾棄すべき存在となるでしょう。『どこまで現代的な倫理をその作品に持ち込むかは、作者それぞれが考えてなせば良い』というのが、私の立場です。

     これから、少しずつせりもも様の作品を読ませていただきます。自分が書く場合は史料や専門書に一応は当たろうとは想いますが、そうでなくて歴史を知るには、小説が1番ですね。虚実交えて楽しませていただけたら、と想います。
  •  追記です。
     カエルになる話は既に読ませていただきました。あれは面白かったです。
  • ご丁寧な返信、ありがとうございます。また、ブログにもお目通し頂き、感謝申し上げます。

    西欧のオリエンタリズムについては、私にはお話しできることはありません。ですので、この絵の描かれた背景について、わかる範囲でご説明致します。

    マレンゴの後、逆転勝利にフランス軍は湧きました。ドゼが加わったことを知らない者もおり、彼の死を悲しむ雰囲気は薄かったようです。中でひときわ異彩を放って泣き悲しんでいた(わからない言葉、不思議な節回しの弔歌 etc)のが、ドゼがエジプトから連れてきたバキルとイスマイルだったのです。そのことを知ったので、この絵に二人が描かれていることを、私は素直に受け取ることができました。

    この絵のドゼには、髭がありません(彼は頬の傷を隠すために髭を生やしていました)。ドゼは、顔の傷は共和国の為に戦った勲章だという意味のことを姉への手紙に書いていました。横向きの構図は、殊更に、両頬を貫く銃創を意識させます。理想に燃える共和国の勲章が、きれいな横向きの頬に見える気がします。

    彼の持つ文書については、情報の具象化のような気がします。上エジプトにいた頃、ドゼは小舟を使って、暗号でカイロと情報をやり取りしていました。ドゼは現地の人の信頼が厚く、為に、住人や敵の情報が彼の元に集まってきました。

    なによりドゼは、2年半をエジプトで過ごした後、(トゥーロンで検疫期間を取られましたが)すぐにイタリアへ向かい、ストラデッラでボナパルトと再会した5日後に戦死しています。彼にエジプトのイメージが強かったのは極めて自然なことに、私には思われます。

    サイードの『オリエンタリズム』、お教え下さり、ありがとうございました。エル=アリシュ条約についても書かれているのでしょうか。3月いっぱいは動けないのですが、時間ができたら読んでみます。

    歴史を描く立場は人それぞれだと思います。現代の倫理観を持ち込むか否かという視点は貴重です。私に関して言えば、人間の普遍性を描きたいと思っています。それを小説に落とし込むまでが目標なのですが、史実を描くだけで力尽きているのが現状です。それだけその人たちが素晴らしく、かつ、胸を打つ生き方だったのだ、ということです。つまり目下のところ、私の小説は完全に史実に負けていることになりますが、それでも楽しいのです。

    「完膚なきまでの……」にお目通し下さって恐縮です。あれは、史実に特化した小説をお読み下さった方々へ、お礼の気持ちをこめて書いたものです。リストを見ると、恋愛小説がお好きな方が多いようだったので、頑張ってみました。流行りの小説からはどうもズレてしまった気がしましたが、面白かったと言って下さってありがとうございます。

    すみません、長くなりました。主観的なことばかり書き連ねまして、申し訳ありません。自分のお話を解説するのは苦手ですが、アッピアーニの絵に関する事柄ですので、どうぞお許しの上、お読み捨て下さい。
  •  返信ありがとうございます。なるほど、横向きは銃創を描いていないのを明確に示すためとすれば、納得です。いわば、死化粧ですね。まさに画家による弔意でしょう。

     ところで、サイードの『オリエンタリズム』ですが、エル=アリシュ条約はありません。史実を求めて読むなら、失望されると想います。史料を1次、歴史研究書を2次とすれば、彼のは3次文献です。コロナが少し収まりましたら、まずは立ち読みでもされたら(もしくは図書館で)とは想います。


     エル=アリシュ条約ですが、私も興味を惹かれ、調べてみました。ネットでは①Wikiと②ブリタニカくらいですね。ここら辺はせりもも様も調査済でしょう。

     ムスリムに関する手持ち史料の中では、扱っているものはありませんでした。
     ③『世界の歴史7イスラム文化の発展(筑摩書房1961)』所収の「アラブの覚醒」がナポレオンのエジプト遠征を概説、
     ④『オリエント史講座5スルタンの時代(学生社 昭和61)』所収の「オスマン帝国の近代化運動」がオスマン朝がヨーロッパ諸国と結んだ条約を列記して概説しておりますが、
     共にエル=アリシュ条約は省いています。省いた理由は、①や②が記す如く、イギリス政府の方針?不手際?により、この条約は機能せず、この後もエジプトでの戦争は継続し、最終的に現地のフランス遠征軍の降伏に至ったゆえと想います。

     エル・アリシュ(アル・アリーシュ)の地については、史料としてはバットータの大旅行記1巻180貢(東洋文庫)がわずかに、そこを通過したこと及び宿駅であり水が供給されたと伝えています。
     エジプト側のカトヤー及びパレスチナ側のガザの方がまだ詳細に伝えられており、エジプト(カイロ)――シリア(ダマスカス)間の隊商路・巡礼路・軍征路上の宿駅であったと想われます。
     ナポレオンはこれより北のアッカ攻略に失敗したとされますので、ちょうど、ここがフランスの最前線基地となったのでしょうね。
  • これはまた、詳細に調べられましたね! 私は、エル=アリシュ(フランス風に音引きは表記しないことに私はしてます)条約は、日本語の資料には(欲しい手掛かりは)なかろうと思っていました。「包囲戦―le siège」に使ったのは、いずれもドゼとシドニー・スミス関連の書籍から得た知識です。英仏両サイドから調べましたので偏りは減じたと思います。(さすがにグラン・ビジエ側からは無理でした……)

    ご興味をお持ちのようで嬉しいです。うまく機能しなかった和約ですが、いわば、シドニー・スミスとドゼの出会いの場。私にとっては大切な和約です。ただ、ドゼのシドニー・スミス評は知られていますが、シドニー・スミスがドゼをどう思ったかがいまひとつわからず、残念に思っています。

    小説が完結しましたので、この和約に至る道筋を、フェリポーまで搦めて、今現在、ブログで追っています。週に2~3回くらいの更新ですが、もしよろしかったら。今回は3ヶ月ほどかかる予定です。

    https://serimomoplus.blog.fc2.com/
    (「フェリポー 1」が今回のスタートです)

    全部終わってから目次にまとめますので(そうすると書いた順に並びます)、それから読み始められる方もいらっしゃいます。

    ちゃっかりブログの宣伝までしてしまってすみません。この時代の人はキャラが立っている人が多いので、時代小説のように広がって欲しいと切望しています。
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