線香の微かな香りが、静まり返った古い日本家屋に漂っていた。
縁側に座り、ぼんやりと庭の木々を眺めていた相川湊(あいかわ・みなと)は、ゆっくりと息を吐き出した。二十四歳という若さでありながら、その背中にはどこか酷く疲れたような、重苦しい空気が張り付いている。
今日、九年間を共に過ごした祖父の四十九日法要が終わった。
親戚たちが帰り、喪服から普段着に着替えると、この広い家に「完全に一人きり」となってしまったのだ。
『――湊。本当に、一人でここに残るつもりか?』
数時間前、帰り際に兄の蓮(れん)から掛けられた言葉が、まだ耳の奥にこびりついている。
今年で二十九歳になる兄は、先日、仕事の関係で遠方へ転勤することが決まっていた。湊たち兄弟の父親はすでに他界しており、姉の穂乃果は東京の会社に就職して一人暮らしをしている。
祖父という唯一の同居人を失った湊を心配し、兄は「転勤先で一緒に暮らさないか」と真剣な顔で誘ってくれたのだ。
その申し出は、ひび割れた湊の心に染み渡るほど温かかった。
十五歳の時。誰もが羨む冒険者になることを夢見て、希望に胸を膨らませて受けたスキル鑑定。そこで発現した『料理人』というスキルは、現代日本のダンジョンにおいては何の意味も持たない「無能スキル」だった。発動条件すらわからず、ただ少し料理が上手くなるだけ。
その結果、冒険者学校で待っていたのは、理不尽な嘲笑と陰惨なイジメだった。
心を完全に壊し、部屋から一歩も出られなくなった湊を、母も、兄も、姉も、誰一人として責めなかった。それどころか、イジメっ子たちの声が絶対に届かないこの田舎の祖父の家をリフォームし、心穏やかに過ごせる避難所を作ってくれたのだ。
家族は、愛してくれている。それは痛いほどわかっていた。
だからこそ、兄の誘いを断った。
『ありがとう、蓮兄ちゃん。でも、俺はこの家に残るよ』
『……一人で大丈夫なのか? じいちゃんが亡くなって、お前も寂しいだろう。母さんだって心配してるんだぞ』
『わかってる。でも、蓮兄ちゃんのところには、綾乃ちゃんと優斗くんがいるじゃないか』
蓮兄の妻である美月さんは、長女の綾乃(十歳)と長男の優斗(九歳)という、思春期の入り口に立つ年子姉弟の、複雑な情緒に振り回されている。そこに、二十四歳にもなって外の世界に出られない引きこもりの弟が転がり込めば、どれほどの負担になるかは想像に難くない。
それに何より、この家を手放したくなかった。
絶望の淵にいた自分を九年間、何も言わずに隣で受け入れてくれた祖父との思い出が詰まったこの場所を、空き家にして朽ちさせることなどできなかったのだ。
『……わかった。お前がそこまで言うなら、無理にとは言わない』
兄は困ったように眉を下げた後、肩にポンと手を置いた。
『その代わり、毎日必ず電話するからな。何かあったら、昼夜問わずすぐに連絡しろよ』
『うん。……ごめんね、蓮兄ちゃん。心配かけて』
蓮兄の車のテールランプが田舎道に消えていくのを見送った時の、あの胸を締め付けるような孤独感。
縁側から立ち上がると、薄暗くなり始めた居間を通り抜け、自室へと向かった。
家族との関係は良好だし、兄の言葉通りこれからは毎日誰かしらから安否確認の電話がかかってくるだろう。だが、電話を切った後に訪れる絶対的な静寂は、自分自身でどうにかするしかない。
パソコンの電源を入れると、暗い部屋の中に青白い光がパッと広がった。
社会から完全に隔絶された湊にとって、この光だけが、外界と繋がる唯一の窓だ。
「さて……今日の配信は、と」
マウスを操作し、ダンジョン配信サイトのブックマークを開く。現代のダンジョン配信と一口に言っても、そのスタイルは様々だ。未踏破階層の攻略をメインとする「ガチ勢」、ルックスやキャラクター性を前面に押し出す「アイドル勢」、そして危険の少ない階層で日常的な探索や雑談を行い生計を立てる「カジュアル勢」。
そしてブックマークに並んでいるのは、主に後者の二つ――アイドル勢とカジュアル勢のチャンネルだった。
湊がこのダンジョン配信の推し活にのめり込むようになったのは、他でもない、幼い姪と甥の影響だった。
『湊おじちゃん! これ、すっごく面白いんだよ!』
『おじちゃんも一緒にみよー!』
蓮兄家族が遊びに来た際、幼い頃の綾乃(五歳)と優斗(四歳)が、舌足らずな言葉でタブレットの画面を見せてきたことがあった。そこに映っていたのは、色鮮やかな魔法と剣技が飛び交う、現代ダンジョンの戦闘映像だった。
かつて自分が憧れ、そして無惨に打ち砕かれた冒険者の世界。
最初は見るのも辛かった。特に最前線を走るガチ勢の眩しすぎる才能は、無能スキルを持つ湊の心を抉った。しかし、無邪気な子供たちと一緒に画面を覗き込んでいるうちに、いつの間にか、その映像に画面越しで釘付けになっていた。
才能の差を見せつけられるガチ配信ではなく、愛嬌で視聴者を和ませるアイドル配信者や、企画や初心者講座などを見せるカジュアル配信者の存在が、湊の荒んだ心を少しずつ癒やしてくれたのだ。
安全な部屋の中から、彼らの成長を見守る。
それは、傷ついた湊にとって、唯一許された「冒険」だった。いつしか、子供たちよりも熱心に配信を追うようになり、アイドル勢の冒険の助けになればとネットの掲示板や攻略サイトを血眼になって読み漁るようになっていた。
どのダンジョンの何階層に、どんな魔物が出るのか。
その魔物の弱点はどこで、どんな予備動作で攻撃を仕掛けてくるのか。
トップ層のガチ勢たちは、それをどうやって躱し、どうやって反撃しているのか。
愛する「推し」のアイドルやカジュアル配信者たちがピンチに陥った時、どう動けば助かるのかを知りたくて、オタク特有の異常な執着心が爆発した。実践する機会など永遠に訪れないというのに、頭脳には、現代ダンジョンにおける最先端かつ超実践的な戦闘知識が、スポンジのように吸収されていたのだ。
「……よし、今日はこの子たちの浅層探索枠か。装備の相性が少し悪いのが心配だけど」
お気に入りのカジュアル配信者が画面に現れ、たどたどしい身のこなしで魔物に挑んでいく。
その動きを一瞬たりとも見逃さないよう、そしていざという時はコメント欄で的確なアドバイスを送れるよう、モニターに噛み付くように見入った。
画面の向こうの喧騒と、自分の部屋の静寂。
湊は今日もしばらくの間、独りぼっちの世界から抜け出すのだった。