どんよりと曇った空が徐々に泣き出していた。天を灰色に支配する雨雲から雨雫が落ちてくる。坂道を登っていた背広姿の中年男はひとり、冷たく泣き始めた空を見上げる。雨雫がひとつ、男の目元に落ち濡れる。雫は、頬を伝い落ちた。これはまるで哀しい涙のようだと男は中指で拭ってから、黒色の傘をさし、坂道を再び歩き始めた。
バラバラと、雨雫が傘を叩いてくる。雨脚が強まり、泣き出したどしゃ降りな空は地上を冷たく濡らしてゆく。
(今の心を、表しているようだな)
男の彫り深い顔に哀の色が広がる。
(何年と経っても、慣れないものだ)
男は顔を隠すように片手でゆっくりと拭い、坂の先に見える先祖代々の墓に続いてゆく石階段を、傘の隙間から眺めた。
「またせたね、今年も会いに来たよ」
男は緩やかに優しい顔で微笑むと「妻と娘の眠る墓」へと向かう。
この男の妻と娘が亡くなったのはもう何年も前の事だ。留守中に何者かに押し入られ、命を奪われた。赤色に染まった血溜まりの光景、男の目にはいつまでも焼き付いている。忘れる事はない。
残虐非道な犯人は未だに捕まっておらず、妻と娘の無念を晴らすことは叶わずだ。安らかに弔ってあげることもできないと唇を噛みながら、今年も命日に墓参りを済ましに来た。
男は墓へと続く階段を登ってゆく。
「.......ん?」
墓の前には先客がいた。桃色の傘をさした小柄な人物が墓の前に立っている。
「あの?」
男が思わずと声を掛ける。桃色の傘の主が男に振り向いた。先客の正体は狐のように薄く眼を細めた少女だった。男の見知らぬ少女だ。生きていれば娘もこの位の年頃だっただろうかと思わず柔和な笑みを零し『喉を鳴らし』た。
「娘の、お友達だった子かい?」
若い娘がこんな辺鄙な墓地で妻と娘の墓の前に立っている事から、娘の友達であると推測した。
「.......いや、知らないよ」
少女は表情ひとつ動かさず、薄笑いな声でそれを否定した。ではなぜ、我が家の墓の前に若い女がいるのだと男は首を傾げながら、少女を観察するよう下から上に眺めた。
使い込まれたヨレたスニーカーに健康的な脚を包む黒タイツ。紺色のミニ丈プリーツスカートに桃色のフード付きパーカー、随分とラフな格好をしている。墓の前では似つかわしくない服装であると感じながら、その真白い顔を眺め、じっくりと見つめていると、化粧の慣れ無い色素の薄い唇が僅かに動き、少女は男に馴れ馴れしく話しかけてくる。
「この墓に、人は眠っているのか?」
「え?……ええ、私の妻と娘がね」
男は正直に答える。なぜ、そんな事を聞くのかはわからないが、墓参りに来てくれた人を無下にはできないと堪える。
少女の鼻からフッと、息が漏れ、肩を竦めた。
「いいや、この墓には『何も無いよ』遺骨も、遺灰も、安らかに眠る魂なんて何ひとつも無い。あるのは障気汚ない空っぽな器だろう」
「……何が言いたいのかな?」
嫌に無礼な事を言う女だと苛立ちを持ったか、男はふつふつと怒り燻る奮えた声を漏らした。少女は男の様子には気にも止めず、傘を持つ手を持ち替えて、薄っすらと細まっていた狐眼をゆっくりと大きく開き、言葉を吐き出した。
「言ったとおりなんだよ。墓の中身は何もありはしないんだって。墓というよりさ、こいつはお前の『食事容器』なんだろ?」
「ふざけた事を言うもんじゃあないっ!」
男は激怒して、少女の肩を掴んだ。