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ADHD、ASD、うつ一当事者として

一当事者として

みなさんこんにちは、名月楓です。

あまり気分の良い話ではありません、もしかしたら消すかもです。

ADHD、ASD、うつの一当事者としてのお話です。
あくまでも当事者の意見でしかなく、専門家の意見ではないことをご了承ください。

まずこれらがどんなものなのか、という話ですが、正直精神科、心療内科のHPなどを見るのが適切ではあるのかなと思います。その上で私なりに分かりやすく、ADHDとASDに関して説明するのであれば、
ADHD:脳内の伝達物質の過不足などで、過集中、注意散漫な状態になることが多く、それらを自らでコントロールしにくく、生活などに支障が出てしまう障害。
ASD:自らの意見に固執する、会話のキャッチボールにおいて自分を優先してしまう、他者を慮ることが難しい、先天的な障害。
となるのかな、と思います。ASDの方が説明が難しく、正直言葉足らず感は感じています。


そしてここからが本題ですが、これらを理由に何かから排除するのは正しいことなのでしょうか。

私は別に良いと思います。その物事の管理者、所有者であるなら、その人の自由で合って良いと思います。
ただし、それが過ぎるとありとあらゆるものからこのような人々が排斥されてしまうため、法律やルール、道徳心などである程度のコントロールをなされています。
ですが、誰に門戸を開くのか、それは当事者の自由で権利ですから、侵されるべきではないように思います。
いわば嫌なやつと遊ばない、その程度の話であると思われますので。

じゃあいいと思っているならなんでこんな話をしているのか、と思われるかもしれません。
私がこのような文章を書いた理由は、
「自分が思う嫌なやつ、を精神病に還元して、確信もないのにあたかもそれ自体が悪いかのように公然の前で(特に未成年も少なくない場で)発信すること」
は悪いことだと思っているからです。
ADHDはともかく、ASDの説明を見たときに、嫌なやつだな、と思ったかもしれません。その感覚は間違っていないと思います。しかし、全ての嫌な人がASDに分類されるわけではありません。必要十分条件の概念の話です。(中高生あたりでよくやると思います)
嫌な人の話をする時に、それをASDや他の精神疾患であることを確実であると言って話してしまうと、社会におけるそれらの理解、認知が歪んでしまいます。逆に言えば、それだけ歪んだ結果が、簡単にADHDやASDだと判断して切り捨て、悪印象を与える、という当事者には苦しい状況になってしまっています。少々思想家?的な考えになりますが、これでは社会全体の幸福が失われて、やがて何らかの形で自らにも、無意識にその不利益がやってくると思います。

じゃあどうすればいいのか。非常に簡単な話で、やられた嫌なことは言語化して、これをされたくない、と言えば良いと思います。それを、言語化を諦め、単純なものや言葉に還元する。少なくとも文字を書くことを生業にしているカクヨムユーザーはすべきではないことだと思っています。
もちろんこれはいわば『お気持ち表明』であり、強制力なんて一つもありません。
ですが、嫌な人やことを、精神病に還元して表現されるのが許されるように、私にも、こうやって言いたいことを言うことが許されています。

自由、権利というものは難しいですね。
理想論、全ての人間が、他者に優しく、寛容であればと思っています。
しかし、寛容であるということは、寛容でない人のことも認めねばならない、寛容のパラドックスを孕んでいます。

難しいですね。

幸せでありたいものです。

結論としては、
「嫌なことは単純化ではなく言語化しよう」
です。

長々と読んでいただきありがとうございました。

3件のコメント

  • こんにちは。
    小説の方でも書かせていただいたのですが、こちらの方でも少々書かせていただきます。
    まずは返信ありがとうございます。
    その様な意見もあるのかと納得した次第でありますが、少々私が言いたかったことと相違点がある様ですので改めて書かせていただきます
    (すいません…強情なもので)
    「ADHDという括りで病名が与えられているのは、決して怠惰などではない、という免罪符ではありませんが証明書のようになっている面もあるので、それを廃して個性と捉えてしまうのも難しいと思っております。」とのことですが、その通りだと私も思っていて、伝えたいのはなんというか、行政的、社会的なレッテルは必要な場合があるが、個人的なレッテルをはるべきではないと言うことです。えーと、つまりネットなどに流れている情報や自分の考えだけで塗り固められたレッテルをはるのは間違っているのではないかということです。これで意図が伝われば良いのですが…すいません、言語化するのが難しくて。
    「個性と捉える、というのも「障害」を「障がい」と書くようないわば言葉遊びのようになってしまっているのではと感じています。」とのことですがこれも両手を挙げて賛成します。世の中そういうものばかりが溢れていると私としても思っていて、結局意味がないし、はらただしいと感じているので。
    正直、私は「それも個性だから」とか言って決めつけてる大人が大嫌いですので笑
    これも言葉にするのが難しいのですが…私が言っている個性は個性と似てはいますが個性ではないということです。例を挙げるのならば、世の中ADHDでない人が大半ですが、比率が逆だった場合どうなるでしょうか?逆に普通の人がADHDの様なものとして扱われるのではないでしょうか?
    結局区別などというものはそういうことであり、多数派に合わせているだけなのです。伝えたいことは、多数派少数派などと分けていますが、多数派の中の人たちの意見が全く同じなわけでもなく、それぞれが個人であり、多数派、少数派などではなく、人は人として捉えるべきではないかということです。これで伝わればいいのですが。言葉を変えるのならば多数派が少数派に押し付けてはいけないということです。
    すいません、名月さんの意見を自分なりに捉えたつもりなのですが、読み取り不足かも知れません。
    本質というのは難しいですよね。私としては本質というのは存在しないのではないかぐらいに思ってしまいます。いつか感じ取りたいものです。
    改めて丁寧な返信ありがとうございます
    私自身もかなり考えさせられ、自分を見つめ直す良い機会になりました。
    また話す機会があったら話したいなと思っています。
    何か名月さんの方から意見がありましたらまた返信いたしますので。
    色々とありがとうございました。
  • OROCHIさん
    こちらこそ丁寧な返信ありがとうございます。こちらも100%読み取れたり100%考えを言語化できてるわけではないのでこのような訂正などは重要だと思います。
    「個人的なレッテルを貼るべきでない」と言うのは同意見です。私も病名を与えるのは社会的文脈の中が一番だと思います。歪んだ情報が蔓延る社会で、個人的な判断でレッテルを貼ると間違った理解に繋がりかねませんしね。
    結局はその特性を持つのが少数だから病気扱いされている(乱暴な言い方ですが)、と私もカウンセラーさんから言われたことがあり、そこには賛同します。個性というか「個であること」でしょうか。結局は同じ存在が一人としていない、だからこそある属性の人、と見るべきではなく、その人の「個」を見る。私も言語化、読解があまり上手くないのですがこういうことかな、と読み取りました。
    そこに関しても非常に賛同します。結局は個人は個人であり、全てがオーダーメイドであるべきであるとは思います。その上で、やはり限界はあるのである程度のグループ化、レッテル張りが必要なのかなというふうにも思ってしまいます。もちろんそれは押し付けであってはならず、少数から出される意見と、多数から降り注がれる目線の合算で得られた解であるべきだとは思います。
    自分で話していても難しいし言語化しにくいところだとは思っています。少しでも伝われば幸いです。
    非常に有意義なコメントでした。改めて感謝を述べさせてください。ありがとうございました。
    このコメントが届くことを祈っています。
  • 返信ありがとうございます。
    「個であること」。なるほど、と思いました。まさしく私が伝えたかったものであり、伝わった様で嬉しい限りです。
    グループ化レッテル貼りはやりすぎず、やらなすぎずが大切だと考えます。ある程度は必要だが、やりすぎるといけない。やはり中庸でしょうか。「少数から出される意見と、多数から降り注がれる目線の合算で得られた解」まさしくその通りですね。
    こちらこそありがとうございました。
    自分の考えを深める良いきっかけとなりましたので非常に感謝しています。
    また話せる機会を楽しみにしています。
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