先の近況報告に書いた通り、無名の人様の『教室という名の迷宮』を拝読して頭をよぎった思いについて、書きたいと思います。無名の人様、勝手にごめんなさい。
実は、個人塾(のようなもの)をしています。はじめてから8年経つのかな。最初は中学3年生がほとんど。きちんとした塾では難し過ぎるという子たち。親が教えようと思っても時間も無いし喧嘩になる、ということでおばちゃんが教えちゃる、くらいではじめました。
ここ数年は小学生がメイン。そして障害を持っている、または疑わしいお子さんが増えました。
障害を持っているお子さんに勉強を教える、それが将来何になるのだろう、いつも思います。文字を書くことが苦手な子(ディスレクシア)に宿題を書いて提出させる。捻挫している子にマラソンさせるようなものでしょ、と思う。パソコンなら苦労が少ないのだから、それで良くないのだろうか。
でも、なににしても無駄ではなくて、「できた」「やり遂げた」という表情は尊い。見ると本当にうれしい。
だからこそ、苦手なことに時間を使うより負担を軽くして、たくさんのできた、やり遂げたを経験してほしい。そして、食べていくことにつなげて欲しい。
そして、画一的な校則。自由を確かに奪っている。
でも、卑屈な思いを軽減することができるというメリットがあってつくられたのじゃないだろうか。貧しいことは子どもの責任ではない。同様に富のある子が素晴らしいわけではない。一昔前より、貧富の差は激しい。
そして、目立てば犯罪被害者になる可能性があがる。
自由より平等や思いやり、そして貧富の差によるいじめや盗難の防止を説く。危険を近づけず身を守るためだと説く、そんな学校は無いのだろうか。
と言っても。ひとくくりに校則、と言っても対象年齢で目的が変わってくるところもポイントだと思う。
だから、自由や多様性を否定するわけではない。親の思いも様々だし。
無名の人様は多分長く教育に携わってきた方で、教育を取り巻く環境の変化を作品にしてくださる。いろんな思いを掬い上げてくださる。そしてご自身の考えも発信してくださる(私にはちょっと難しいけれど)。もっともっと、拝読させていただこうと思います。
教育、とは言えないかもしれない隅っこの隅っこのおばちゃんだけれど、刺激を受けています。
そして、想いが溢れて止まらなくなってしまいました…。
うちの子達だけじゃない、素直に頑張れるのに追いつけない子達。幸せになれる未来でありますように。社会でありますように…。
うーん、また自分勝手な文章を書いちゃった、それも長すぎ。大変失礼しました。