『臨界のアルケミー』の制作裏話、これで最終回です。
最後は、これまで意図的に本編に書かなかった、物語の「時系列」の話をします。そして、この物語がなぜ千葉でなければならなかったのか、という話も。
■本編に、匡の年齢は書いていない
気づいた方がいるかもしれませんが、本編を通して、主人公・匡の年齢は一度も明記していません。勤続年数も、はっきりとは書いていない。これは、意図的な空白でした。
読む人が、自分の年齢を、自分の生活を、匡に重ねられるように。「これは、どこかの誰かの話ではなく、自分の話かもしれない」と感じてもらえるように。年齢という手がかりを、あえて曖昧にしておきました。
ただし、描かないからと言って決めなくていいわけではありません。場当たり的に作成すると、違和感が生まれます。そのため、プロットを作成する段階で時間軸や時系列、登場人物がその時間経過に合わせてどこで何をしていたのか。明確に時系列として組みました。
せっかくなので、一部を明かしておきます。
匡は、物語の"現在"で36歳。妻の沙織は30歳。6つ違いの夫婦です。
娘の千芙美は3歳。
匡が君津の山を買ったのは、新卒3年目、20代半ばの頃。
そこから約2年、山の開拓にのめり込みました。二人が出会ったのは、匡が30歳、沙織が24歳のとき。結婚を経て、千芙美が生まれ、今に至ります。
■沙織の傷は、出会う前からあった
ひとつ、時系列で大事な点があります。
沙織が「負動産」———あのサブリースのマンションを背負わされたのは、匡と出会うより前、彼女がまだ23歳の社会人だった頃のことです。二人が出会ったとき、その負債はすでに、彼女一人の肩にありました。
匡は、その傷ごと、彼女を引き受けたことになります。この順序は、物語にとって決定的でした。彼が背負ったのは、自分が作った借金ではない。愛した人が、出会う前から抱えていたものだった。だからこそ、彼はそれを「自分の問題」として抱え込んでしまった。
■なぜ、千葉だったのか
二人が出会ったのは、稲毛海岸という土地です。
沙織の実家は稲毛海岸。そして、匡の職場の同僚を通じた縁で、二人は繋がった。地元の、ささやかな人の縁です。
この物語は、千葉市を中心に動いています。これは、偶然ではありません。
匡が働く製鉄所は、蘇我。京葉工業地帯の、火を落とせない高炉のある街です。二人が家庭を築き、沙織の実家もある場所は、稲毛海岸。そして、匡が一人で切り拓いた山は、君津。———すべて、千葉の実在の地理の上にあります。
面白いのは、この配置に、物語の骨格がそのまま重なっていることです。恋が始まった稲毛海岸に、二人は家庭を築いて戻ってくる。義実家のそばに腰を据え、そこから匡は、蘇我の工場へ通い、君津の山へ逃げ込む。日常の街と、労働の街と、逃避の山。その三つが、車で行き来できる距離の中に、無理なく収まっている。
千葉は、工業地帯があり、ベッドタウンがあり、そして少し走れば、放置された山や限界分譲地が広がっている。この物語に必要だったすべての要素が、一つの県の中に、地続きで存在していました。
■おわりに
7回にわたって、制作の裏側を書いてきました。ロケットストーブ、サブリース、山林、罠猟、団信、死産の手続き、そして時系列と千葉。
そのすべてに共通しているのは、「調べて、裏付けを取って、嘘なく書く」ということでした。
普通の男が、日常の延長で、手の届く道具で、あそこまでいってしまう———その手触りだけは、絶対に本物にしたかった。
ここまで読んでくださって、ありがとうございました。『臨界のアルケミー』を、そしてこの裏話を、少しでも楽しんでいただけたなら、これ以上のことはありません。
『臨界のアルケミー』全30話・完結済み https://kakuyomu.jp/works/2912051599243086716