皆さんは誰かへささやかな失望を感じたことはあるでしょうか。
例えば
とても仲のいい親友が電車待ちの時間、地面やスーツケースに座り込んだり
彼氏が性行為の直前に靴下を脱ぐ井出自分の脱いだ服を畳んだり、
尊敬していた親が、他人に自己中心的な迷惑をかけていたり
自分がその場にいることを「なんとなく拒否」したい。そんな失望を感じたことはあるでしょうか。
人生の中でより深い親交を進めようとしたとき、必ず人間は「失望」という壁を越えなければならないと思います。
昨今での言い方だと「蛙化現象」や「ぬいぐるみペニス症候群」というものが身近かもしれませんね。
午後の曳航を読んで考えたのはそんな、小さな失望の先にある大きな断崖でした。
登場人物の登は憧れの男・竜二が自身の母親と出会って堕落していく様を見せつけられることによって強く存在を否定します。強かに、狡猾に。
彼らの全能感はだれもが味わうことがあるかもしれない。それは小学生や高校生に上がった瞬間だとか、何かの節目の前だとか。
この場合は14歳。当時。あらゆる法が彼らの悪事を掬い取れない時期でした。
大人のような倫理観や価値観を持たない純粋すぎる正義感と価値観と、誰もがさばけないそんな年齢からの全能感。
後半の死へのカウントダウンは、ゆっくりと穏やかに、そして竜二の矜持を溶かして進んでいきます。そのシーンは非常にぞくりと背中を撫で上げる、奇妙な雰囲気を持っていました。
この作品は、言ってしまえば『反抗期最強出力』なのですが、純粋さを失わない、若い美学と人生観がただの「失望」を超えて潔癖な「粛清」のように変わっていくのは背筋をゾクリとさせてきます。
人間への蛙化現象、それはどんな人間でも深く知ろうとすれば必ず出てきます。
それは、体系だとか生活だとかもしかしたらセックスの時かもしれない。
それでも私たちはその緩やかな「失望」に対し、なにを持って抵抗するのでしょうか。
それは拒絶ですか?
それは皮肉ですか?
それは解体ですか?
それは制裁ですか?
これから生きていく中であなたたちはどのように「失望」を処理して、目の前の大切な人に向き合うのでしょうか。