ふだん電子式自意識排水溝に些末事を垂れ流してる自分にこの機能は無用だったが、あまりのことなので整理も兼ねて使わせていただく。
二〇二二年十月五日の午後、津原泰水先生の訃報を知った。
自分が最も敬愛する現代作家だった。
一九八九年、二十代のころから「津原やすみ」としてデビューし、(すなわちアマチュア時代を経ずに)、当時の少女たちをおもな読者として小説を書いた人だった。七年余りがたって、津原やすみは「津原泰水」として文藝界に顕現した。「妖都」というとんでもない代物をひっさげて。
大都市とは一つの自殺システムである。先生が、「妖都」復刊時のインタビューで語っていた言葉だ。地方から上京して来た者を蟻地獄式に吸い込み、破滅に至らせる。先生はもともと東京をそんな魔界めいた空間として捉え、視えるまま聴こえるままの地獄を文字媒体で召喚した。「妖都」で、その後に著した「ペニス」、「少年トレチア」、「バレエ・メカニック」で。数か月前、地方から上京していたある知人が、電源ケーブルで首を括り、その死顔をみたばかりだったから、この都市自殺システム論は自分の中で重みを増していた。
津原泰水の作品群を支えているのは、磨き抜かれた言葉だ。単語のレベルで、無数の語彙からことごとく最適解を選択したとしか思えぬ文章群。異様な物語、美しい物語、悲しい物語、可笑しい物語、怖い物語、壮大な物語、どれであっても、考えてみればこれしか考えられぬだろうというラストにまで登場人物たちを、そして読者たちを牽引する技巧。
これらをして、先生を現代の久生十蘭と呼ぶ声も多かった。言葉の魔術師。様々な文体を使い分けて手品のように物語が披露される奇蹟。異論はない。しかしもう一つある。
北海道の新聞社で記者として働き、退社してからは岸田國士のもとで演劇雑誌の編集を務めた阿部正雄は公演での演出助手という経験も重ね、その後シベリア鉄道ではるばる仏蘭西にわたり、何故かそこで演劇と一緒にレンズ光学を学んだ。そして帰国後、彼は瀟洒な短篇群を書き散らしつつ「金狼」「魔都」という長篇を引っ提げながら雑誌『新青年』に、久生十蘭として登場した。それまでの自身の経験と教養を惜しげもなく小説の材に用いた。ただし、自分自身は舞台の黒子に徹しながら。
津原泰水という人も、また自身の過去を小説におこす人だった。作家時代に患った神経症、アルコール中毒、出版社との軋轢という出来事は短篇では「水牛群」「天使解体」によく表れているし、ご自身が飼われていた犬(チベタンテリア)やブリーダーとの付き合いで得られたのだろう知識は「妖都」、短篇では「クラーケン」「聖戦の記録」で用いられている。そして生まれ故郷である広島を舞台に、先生の作品の中でもとくに究めて緻密で豊穣な世界が構築されている「五色の舟」、家系に忘れ去られた夭折者の名を見つけたことから書かれた「土の枕」、学生時代の経験を活かした「ブラバン」、最近では、広島弁を語りの手段として用い、この現代だからと再び書かれた少女小説「恋するマスク警察」など。先生もまた、使えるものならばなんでもと、自身の経験を供物とするを惜しまぬひとだったと思う。
読者を裏切ってはならない。自分の作品は人を選ぶだろうが、ならその人たちを存分に楽しませる。それが、先生の(そして十蘭の)確固たる信条だったろう。
読まれたときに忘れられない文章を。先生が数年前から開いていた文章教室では、専らその目標に沿って講座が開かれていた。自分も、二〇一八年度からおよそ一年間ほど、教室に参加させていただいた。
先生がとくに強調なさっていたのは、キャラクタの立て方だった。立体的で具体性に富んだ人間を紙の上で造形するにはどうすればよいか。よく仰ていたのは「科白を喋らせる」ということだった。口癖、語彙、返答の仕方、その人が一文に含む情報量。そんなところを意識して書けばその人物の心情、思考回路のくせ、性格、社会的背景といった肝心なものは読者におのずと伝わってくると。
「細部まで考えて考えて考え抜いたうえで、書かない」というのも、よく言われていたことの一つだ。ファンタジーやSFなど、物語がその世界特有の論理と設定を希求するジャンルにおいては、それらを冒頭でト書き調に羅列するのではなく、いきなり読者をその世界に放り込むこと、設定やそれに関する用語は、自然に紛れ込ませるテクニック。あるいは、上段で書いたことと関係するが、キャラクタを造形するときは限りなくその人物に共感するよう試みること。差別主義者、平和主義者、狂人、天才、凡人、悪人、善人、誰であっても。そして彼らがどういう思考をするのか、考えて考えて……書かない。その思考の切れ端を、そっと会話文に挿入させる。
講座からの帰り、恵比寿駅近くにあった美術ギャラリー「LIBRAIRIE6」に先生と受講者一同で寄り、開催されていた四谷シモン展を鑑賞しに行った。四谷シモンさんがいた。澁澤龍彦の本でしか名前を見ることが無かった伝説上の存在がいた。「11」、「バレエ・メカニック」の表紙を飾る少年少女の人形を作り上げた人形作家がいた。先生が四谷シモンさんから人形の仕上がりはどのタイミングで終わらせているか尋ねると、「人形が寂しそうに見えたとき」と返ってきたと、講座で伺った。先生自身も、自分は明確に結論付けた終わりは描かない、といった旨のことを仰っていた。白鷺城の天守よりも高い上空で繰り広げられているような話にしか思えなかった。
アマチュアで物書きをやって数年経つが、いまだ教わったことの百分の一も実践できていない。
一年ほどののち自分は定期受講をやめたが、その後も講座は開かれ続けており、局勢がコロナ禍に突入してからは講座はオンラインの形態にもなった。そこで度々参加していたが、最後に受けたのは今年の六月十日となった。
「自分にしか書けないものを書いてください。自分の資質を見極めてください」
そんなことを冒頭に仰っていた。時事問題のさなかにいる人間を題材にするときに生まれる罪悪感にどう向き合えばよいのか、という受講者の一人からの質問には「小説にしたとき、美しい方を選んでください。(題材とした人間に対して)誠実ならば、尊厳を真摯に考えているならば、作家はその傲慢さが許されます」と。
最後まで、あらゆる力を小説に降り注いだ人間だったと思う。