──陽気な春。
神田の通りには桜が咲いていた。伊勢屋の前には枝を広げた老木があり、花弁が風に舞うたびに、暖簾をくぐる人の肩や髪に淡く降りかかる。
通りの向かい。茶店の奥まった席に、二人の男が座っていた。
源一郎と辰蔵。
団子の皿が二つ。茶が二つ。どちらも手をつけていない。
伊勢屋の表には紋の入った幕が掛けられ、祝いの酒樽が並んでいた。出入りする人々の顔は明るく、奉公人たちが忙しそうに立ち働いている。蝋燭問屋の暖簾が風に揺れるたび、中から賑やかな声が漏れ聞こえた。
──今日は、伊勢屋に婿が入る日だった。
源一郎は団子を一つ取り、口に運んだ。みたらしの甘辛い味が舌に広がる。春の陽気には甘い団子がよく合う。
隣の辰蔵は、団子に手を伸ばさなかった。茶碗を両手で包むように持ち、じっと湯気を見つめている。その横顔は穏やかだった──少なくとも、そう見えるように努めているのが源一郎には分かった。
しばらく、二人は何も言わなかった。茶店の婆さんが奥で餅を焼く音。通りを行く花見客の笑い声。桜の花弁が、辰蔵の膝にひとひら落ちた。
「……良い日和ですね」
辰蔵が言った。声は静かで、穏やかで、いつも通りだった。
「ああ」
源一郎は頷いた。
伊勢屋の門口に、一人の男が姿を現した。二十代半ば。顔立ちは整っているが、それよりも背筋の伸び方と、周囲への目配りの仕方が目についた。商人の家に育った者の所作。仲人と思しき年配の男に伴われ、軽く頭を下げながら中へ入っていく。
──婿だろう。
辰蔵がそちらを見ていた。ほんの一瞬。それから視線を茶碗に戻した。
「聞いたところでは、日本橋の薬種問屋の次男坊だそうです。商才があり、人柄も良いと」
辰蔵が言った。まるで他人事のように。いや──他人事なのだ。旗本の嫡男にとって、蝋燭問屋の婿取りなど、本来は気に留めるようなことではない。
「仲人は伊勢屋と古くから付き合いのある油問屋の主人で、お房殿──お千代殿の母御も体調が上向きつつあるとのこと。良い縁談ではないでしょうか」
淡々と、思うところなど何もないとばかりに話す。その声に揺らぎはない。源一郎は団子の串を置いた。
「……詳しいですな」
「……道場の門下生に伊勢屋と付き合いのある商人の子息がいるのです。聞くつもりはなかったのですが、向こうが話すものですから」
辰蔵は苦笑した。自分でもおかしいと思っているのだろう。旗本の嫡男が蝋燭問屋の婿の素性に詳しいと。それが何を意味するか──辰蔵自身が一番分かっている。
源一郎は茶を啜った。
──前世ならば、こういう時、何と言えただろう。
好きなら言えよ。告白しろよ。後悔するぞ。前世の友人なら、そう言っただろう。居酒屋で背中を叩き、無理やり電話をかけさせるような、そんな世界だった。
だが、ここは江戸だ。
身分が違えば、想いの大きさだけでは何も変えられない。辰蔵がお千代に想いを告げること自体が、お千代の立場を危うくしかねない。旗本の嫡男に言い寄られたとなれば、お千代の婿取りにも差し障りが出る。辰蔵はそれを分かっている。分かった上で、黙っている。
──伊勢屋の中から、拍手と歓声が聞こえた。
婿入りの盃事が始まったのだろう。三々九度。固めの杯。二つの家同士による婚姻の儀式。
辰蔵は目を閉じた。ほんの一瞬──息を吸い、吐いた。それだけだった。
そして目を開けた時には、もういつもの辰蔵に戻っていた。
「渡辺殿」
「ん」
「……今日は、団子くらい奢らせてください。こんなところに付き合っていただいたのですから」
源一郎は辰蔵を見た。
辰蔵は笑っていた。いつもの、あの人懐っこい笑み。道場で打ちのめされても翌日には「もう一本」と立ち向かってくる、あの諦めの悪い男の顔。
──だが、その目には複雑な色が残る。
「何も気にすることはないです。団子くらい自分で払いますから」
源一郎は素っ気なく言った。
「辰蔵殿こそ、そろそろ食べては?まだ一口も手をつけていないでしょう」
「ああ……そうでした」
辰蔵は団子を一つ取り、口に入れた。咀嚼して、飲み込む。
「……美味い、ですね」
その声が僅かに──ほんの僅かに震えたのを、源一郎は聞き逃さなかった。
だが、何も言わなかった。言うべきではないと分かっていた。
源一郎にできることは、ここにいることだけだった。茶店の奥まった席で、団子を食い、茶を飲み、伊勢屋の祝い事を眺めるでもなく──ただ隣に座っていること。
桜が散ってゆく。
花弁が風に舞い、通りを歩く人の肩に、屋根に、暖簾に降りかかる。伊勢屋の慶事を報せる幕にも、幾ひらかの花弁が張りついていた。
──ふと、伊勢屋の戸口にお千代の姿が見えた。
白粉を薄くはたき、髪を島田に結い上げ、祝いの場に相応しい装い。奉公人に何か指示を出している。きびきびとした所作に、もう女将としての風格が芽生え始めていた。
──強い女だ。
源一郎はそう思った。父を失い、店を奪われかけ、それでも立ち直り、自らの意志で婿を迎えた。あの日、辰蔵の名を呼びかけて飲み込んだ一瞬の間──あの時にすべてを決めたのだろう。泣くことよりも、守ること、自分の足で立つことを選んだ。
お千代が通りの向こうに目を向けた。ほんの一瞬──こちらの茶店の方を見たような気がした。だが、すぐに視線を戻し、奉公人に笑いかけて中へ引っ込んでいった。
気のせいだったのかもしれない。
辰蔵は──気づいていたのか、いなかったのか。茶碗を見つめたまま、微動だにしなかった。
やがて辰蔵は茶を飲み干し、団子の残りを平らげた。一つ一つ、噛み締めるようにして。
「──そろそろ行きましょうか。道場の稽古に遅れてしまう」
辰蔵が言った。何でもないことのように。
「ああ」
源一郎は立ち上がった。銭を置き、茶店を出る。二人は並んで神田の通りを歩き始めた。
清々しい春の風が頬を撫でる。辰蔵は背筋を伸ばして歩いていた。
──何も言わなかった。
二人とも、何も言わなかった。言葉にすれば形になってしまう。形になれば、消せなくなる。慰めなど必要ない。見て見ぬ振りするのが、ちょうど良い。だから黙っていた。
ただ──源一郎は、辰蔵の横顔を一度だけ見た。
悲しみなどなかった。武士はただ堪えるのみ。好いた女の晴れ舞台。祝福はしても、泣き言で飾っては湿っぽくなってしまう。ならば、笑って女の船出を見送るのが、男の役目。それが強さなのか、不器用さなのか、前世の源一郎には分からなかっただろうが──。
だが、今世の源一郎には分かる。これもまた──この世の定めなのだと。
春風が吹き、桜吹雪が舞う。辰蔵の肩に花弁が一つ落ちたが、払おうともしなかった。
二人は黙って歩いた。神田の町を、誠道館へ向けて。
──通りの向こうで、伊勢屋の暖簾が風に揺れていた。