三日後──お鈴が調べを終えて事の報告にきた。
報告はいつものように夕餉の後、書院にて。お鈴が畳に手をつき、静かに話し始める。
「三田村様の御息女──三田村しず様について、幾つか分かったことがございます」
お鈴の声は淡々としている。密偵としての顔だ。
「しず様は確かにお噂通りの器量よし。茶の湯の嗜みもおありとか。ですが──品川の宿場に、月に二度ほど通われているそうでございます」
「品川に?」
「はい。表向きは古い友人を訪ねるということになっておりますが、実のところは──」
お鈴は一呼吸おいた。
「品川宿の旅籠にて、とある男と逢瀬を重ねておいでのようです。相手は下谷の呉服商の若旦那。屋敷に出入りしていた商人。しず様とはもう、一年以上前からの仲で、三田村家のご家中では薄々気づいている者もいるのだとか」
「……そうか」
菖蒲の嗅ぎ当てた「臭い」は、やはり正しかったのだ。
「加えて──」
お鈴は続けた。
「三田村様の御家中で囁かれている話がもう一つ。此度の縁談は、しず様の不始末が露見する前に、何処ぞに嫁がせてしまおうという当主の思惑が絡んでいるという噂です。つまり──」
「俺は体の良い厄介払いの相手というわけか」
源一郎は呆れたように天井を仰いだ。
「渡辺家は先手組与力格の家、近頃は火盗改の加役としても名が通っている。そこへ嫁がせられれば三田村家の面目も立つし、相手の男も諦めがつく。万が一男が娘を追おうとしても、まさか火盗改の身内に手を出すことはあるまいと──そういう算段か」
「それに……ちょうどよい年齢で、暮らし向きが楽なほどの禄持ちの方は少ないでしょうから。それもあって源一郎様に白羽の矢が立てられたのではないかと」
「……とんでもない話だな」
お鈴は小さく頷き、源一郎は額に手を当て深いため息をついた。前世の感覚で言えば、既に交際相手のいる娘を、別の男の許嫁としてしまうに等しい。いや、この時代の価値観であっても激怒して然る、かなり不義理な話であった。
「ありがとう、お鈴。よく調べてくれた」
「いえ。お役に立てたのであれば」
お鈴は頭を下げた。その表情は澄ましていたが……報告を終えた達成感と──縁談が潰れることへの密かな安堵、そう感じている自分への後ろめたさが綯い交ぜになった、複雑なものに感じられた。だが──源一郎もあえてそれを口にすることはなかったのだった。
§
翌朝、源一郎はおたかに事情を伝えた。
無論、菖蒲や妖怪の話は一切せず、知り合いの筋から三田村家の内情を聞き及んだという体で。おたかは最初こそ「まさか」と疑った。だが、源一郎がお鈴の調べた具体的な内容を伝えると、みるみる顔色が変わった。
「……まあっ。品川の旅籠で逢引ですって。それも呉服屋の若旦那と。まあまあ、まあまあまあ──」
おたかは暫し絶句した。手にしていた布巾をギリギリと、きつく絞る。
「それを承知で、坊っちゃんに話を持ってきたというのですか、三田村の。とんでもない。うちを何だと思っているのでしょうっ」
おたかの怒りは静かだが深かった。それは源一郎でさえ一歩引く怒り具合だった。
「……それとなく理由を付けて、断りの文を出しておいてくれるか」
「はい。勿論、こちらからはっきりとお断りいたします。それにしても──」
おたかは深い溜息をついた。
「やはり縁がなくて良かった。とんだ食わせ物でしたねぇ、三田村様のところは。器量よしだの茶の湯だのと上辺ばかり飾り立てて、肝心の中身がこれではお話になりません。坊っちゃんにはもっと相応しいお方がおられますよ。どうか、お気を落とされませんように」
おたかは源一郎に慰めの言葉を掛けると、憤然として書院を出ていった。断りの文を書くために。
一人残された源一郎は、縁側に出て庭を眺めた。生温い風が吹き抜け、庭木の葉を揺らしている。蝉時雨が途切れた一瞬の静寂に、遠くで風鈴の音がした。
──ふと、傍に気配を感じる。
見下ろすと、菖蒲が縁側の端にちょこんと腰掛けていた。小さな足をぶらぶらとさせ、庭を眺めている。その雰囲気は穏やかで、しかし、いつもの無表情に戻っていた。
「菖蒲」
「何」
「……お前、毎回そうやって先に気づいていたのか。相手の家の問題に」
「うん」
「最初の永井家の時も」
「くさかった」
「黒田家は」
「くさい」
「大野家は」
「くさかった。今回と同じ」
菖蒲は淡々と答えた。まるで当然のことを言うように。
「私はこの家の座敷童。変なものが入ってきたら困る」
源一郎は暫く黙って菖蒲を見つめた。この小さな妖怪は二十年以上も渡辺家を守り続けてきたのだ。源一郎が気づかぬところで、幾つもの災厄を嗅ぎ分け、遠ざけてきた。縁談を壊していたのではない。厄を払っていたのだ。
「菖蒲」
「何」
「……ありがとうな」
菖蒲は源一郎を見上げた。きょとんとした顔。
「別に。普通のこと」
「いや、礼を言わせてくれ」
源一郎は菖蒲の頭にそっと手を置いた。小さく、柔らかい感触。菖蒲は少しだけ目を細めた。
「……でもな、菖蒲」
源一郎はふと思いついて訊ねた。
「俺はいったい、いつになったら結婚できるんだ?お前が認めなければ、俺は一生独り身だぞ」
菖蒲は暫く黙っていた。小さな足のぶらぶらが止まる。それから、ゆっくりと源一郎を見上げた。黒い澄んだ目が、真っ直ぐに源一郎を見つめている。
「さぁ?」
「さぁって……」
「時が来たら考える」
「時が来たら、ね……」
「うん。その時は前向きに検討する」
源一郎は思わず噴き出した。どこぞの政治家のような物言い。この座敷童は時折、本当にどこでそんな言い回しを覚えてくるのか。
「前向きに検討、か」
「確かなのは……」
菖蒲は付け加えた。その声は小さく、風にさらわれそうなほど儚い。
「──今はまだ、その時じゃない」
そう言って、菖蒲は珍しくふわりと笑った。源一郎はその笑顔を見て、微妙な顔をした。
本所の屋敷に夕風が吹き抜ける。庭の木々が揺れ、打ち水の跡がゆらゆらと乾いていく──。
遠くからおたかの声が聞こえてくる。断りの文を書き上げ、何やら屋敷の下男に対し、三田村に文を叩きつけてこいと無茶を言っているらしい。しかし──その騒がしさが、この家の平穏の証のようでもあった。
源一郎は縁側に座ったまま、隣の小さな影を見やった。菖蒲はまた足をぶらぶらさせ、庭を眺めている。
──まあ、いいか。
源一郎は空を見上げた。茜色に染まる夏の空。入道雲の名残が西の方へ流れてゆく。
嫁の話はまた今度だ。まだ、歳は二十五。前世の感覚ではまだまだ慌てるような年齢でもない。それに、この家には座敷童がいる。目端が利いて、厄への嗅覚も鋭い。家の守護神とも呼べる座敷童が。
故に、誰と結ばれることになるかは、今はまだ分かりはしないが……座敷童の菖蒲がその内、良い縁を選んでくれることであろう──。源一郎はそう思うことにしたのだった。
§
──その後。
三田村の家は、しずと呉服商の逢瀬が近隣にバレて知れ渡ることになり、当主は面目を失った。勘定所での居場所も狭まり、三田村家は小石川で肩身の狭い日々を送ることになったという。
そして、本所界隈では「渡辺の若旦那に縁談を持ちかけると家が傾く」という噂は、ますます根強くなった。
それを聞く度に源一郎は苦笑するしかなく、おたかは憤慨し、お鈴は何ごともなかったかのように茶を淹れ──そして、座敷童は小さく欠伸をするのであった。
つまるところ、世はおしなべて事もなし──。そういうことなのである。