お読みいただきありがとうございます!
3/1に「転生料理研究家は今日もマイペースに料理を作る あなたに興味はございません(アース・スタールナ様)」の最終巻③巻が発売予定です!
最終巻発売を記念して(?)本作①巻の冒頭を下記の通りアップいたします!
ピッコマさんなどでも試し読み可能ですので、続きが気になる~と思っていただけましたらチェックいただけますと幸いです!
(画像は①巻のものです)
どうぞよろしくお願いいたします(*^^*)
プロローグ
ダンスホールでは、宮廷楽師の奏でる華やかなワルツに合わせて、白いドレスを着た年若い令嬢たちが、まるで妖精のように軽やかなステップを踏んでいた。
今日は年に一度、城で開かれるデビュタントボールの日である。
ローゼリア国のデビュタントボールは、毎年、九月の中旬の満月の日に開催され、その年に社交界デビューする令嬢たちが初々しい白いドレスを身に着けて、はじめての社交界に胸を躍らせながら大人への階段の一歩を踏み出す大切な日だ。
だいたいが十四歳から十五歳。遅くなっても十六歳。デビュタントをむかえる令嬢の年齢はおおむねそのあたりで、最近は貴族令嬢のみならず、一定階級以上の富豪の令嬢たちもがデビュタントボールに参加するので、会場である城で一番広い大広間の中の半分以上が白いドレスで埋め尽くされている。
デビュタントを迎えると同時に、令嬢たちは成人と見なされるため、未来の花嫁を探すべく婚約者の決まっていない若い男性貴族の多くも参加するから、会場の中は本当に人が多い。
(えーっと、あったあった!)
白いドレスを着た令嬢のほとんどが、ダンスホールのすぐ近くで、幸せな結婚を夢見つつ素敵な男性にダンスに誘われるのを待っているというのに、約一名、ダンスホールとは真逆の方向へ、一目散に向かう令嬢がいた。
ほっそりとした首筋にはダイアモンドの華奢なネックレス。ふんわりと結い上げられた蜂蜜色の髪。百合の花を逆さまにしたような形の、裾にかけて広がる純白のドレス。小さな顔に大きなエメラルド色の瞳。華奢で小柄な見た目は、まさに妖精のように可憐である。
シャーリー・リラ・フォンティヌス、十五歳。見た目の通り、本日デビュタントを迎えた、名門フォンティヌス伯爵家の令嬢だ。
彼女はダンスホールの背を向けて、踊るような足取りで会場の隅に設置されているある場所へ向かっている。
(ふふふ、せっかくだからできるだけたくさん味見しないとね! 来たれ未知の味! ひらめけ新しいレシピ! あーっ、わくわくするわ!)
そう――、シャーリーが向かっている先にあるもの。それは、大広間の隅に作られている立食スペースだ。
デビュタントボールは食事がメインのパーティーではないので、立食スペースはさほど大きくなく、邪魔にならないように隅に作られている。
デビュタントたちは婚活――もとい、ダンスに夢中なため、飲食スペースにはほとんど人がいない。料理も全然減っておらず、食べやすいように小さくまとめられた料理が、飾りの花とともにたくさん並んでいた。
(さーて、どれから味見しようかしら? 迷うなぁ……。とりあえず、この端から……)
シャーリーは重ねられていた未使用の白い皿を一枚手に取ると、端から順に気になったものを一口分ずつ乗せていく。目的はお腹いっぱいだべることではなく、できるだけたくさんの味を知ることだ。
(どれどれ……、うーん、おいしい! 辛いんだけどどこか甘くて……唐辛子の辛さというよりは辛味大根のような……、でもちょっと違うような……)
口の中に入れては舌の上で料理を転がしていく。
ゆっくり味わって、首を傾げては考えて、また少し口に入れる。満足すると次の料理に進み、また同じように口に入れては考えてをくり返す。
何をしているのか。それは、料理の味の研究である。
シャーリーは料理が趣味なのだ。けれども、いくら料理研究がしたくても、伯爵令嬢であるシャーリーが、これらの料理を作った料理人を捕まえて作り方を聞き出すことはできない。
ローゼリア国の貴族女性は、チャリティー用のお菓子を作ることはあっても、基本的に料理はしないのだ。料理は労働階級、もしくは同じ貴族でも、没落したなど、わけあって使用人を雇えなくなった人がすることであって、フォンティヌス伯爵家のような裕福な家庭で育ったシャーリーがすることではないのである。
そのため、シャーリーは料理を食べるふりをして、自分の舌だけを頼りに料理研究を行っているのだ。
(あー! 知りたい! 何かしら、この香辛料! うちには絶対にないやつなのよ! 隣のブロリア国あたりからの輸入品かしら?)
ローゼリア国の王妃は、新しい流行を生み出すことに情熱を注いでいる。おそらくこれらの料理も王妃が命じて作らせたものに違いない。
(知りたーい!)
せめて香辛料の入手経路だけでも知りたい。この香辛料があれば、もしかしたら「あれ」も作れるかもしれない。
(あー、でも、この世界、ご飯ないから無理かぁ……。カレーライス食べたいのにな。うう、お米が恋しい……)
ぱくっと別の料理を口に入れながら、シャーリーががっくりと肩を落とす。
「おい」
(このジュレ! このコンソメはなかなかだわ、玉ねぎの甘みだけじゃない。何かしら? 何かしら―! あーっ、気になるものばっかりで困っちゃう!)
「おい!」
(あ、このソースおいしい)
「おいったら!」
(次はこっち)
「おい! 無視をするな‼」
次の料理に手を伸ばそうとした途端、ぐいっと肩が引かれて、シャーリーは皿を持ったまま振り返った。背後にいた男の顔を見て、おやっと眉をあげる。
華やかな金髪に、ラピスラズリのような濃い青の瞳。くっきりとした二重に、鼻筋の通った整った顔。身長が伸びて記憶よりも大人びた顔立ちになっているが、この顔は忘れない。
一年前、シャーリーに向かってとんでもない暴言を吐いてくれた、顔だけイケメンアイドルのこの男は、マティス・オスカー・オーギュスタン。オーギュスタン侯爵の嫡男で、シャーリーを豚呼ばわりして婚約破棄を突きつけた、二つ年上の元婚約者様である。
「……ごきげんよう」
今さらいったい何の用だと内心舌打ちしつつも、無視するわけにはいかないので、シャーリーはとりあえず面倒くさそうに挨拶だけ返しておいた。するとマティスは、シャーリーの反応が気に入らなかったのか、ピクリと眉を跳ね上げる。
だが、シャーリーにはこんな男にかまっている暇はない。少しでも多くの料理を食べて、大好きな料理研究をするのだ。
シャーリーがマティスを無視して再び料理に向かおうとすると、マティスがそれを邪魔するように回り込んできた。それどころか、不躾にじろじろとシャーリーを眺めまわし、ニヤリと口端を持ち上げる。
「へえ、豚がずいぶんと見られるようになったじゃないか」
「はあ」
シャーリーは適当に相槌を打った。
そしてマティスの横をすり抜けて、まだ食べていない料理に手を伸ばす。
豚と言われたところで、今のシャーリーには痛くもかゆくもない。
実際、一年ほど前――マティスに婚約破棄を突きつけられたときのシャーリーは、豚という形容詞が似合いすぎるほどにまるまると太っていた。
だが、シャーリーはこの一年で、かつての面影もないほどに痩せて綺麗になったのだ。今のシャーリーは、ほっそりとした小鹿のような手足をした、妖精のように可憐な美少女である。蜂蜜色の柔らかい髪にエメラルド色の大きな瞳。長い睫毛に白い肌。薔薇色の唇。元婚約者に「豚」と蔑まれる要素はどこにもないのである。だから、何を言われようとまったく気にならない。
「おい豚。聞いているのか!」
シャーリーが怒りも泣きもしないからか、マティスはむっと口をへの字に曲げた。
「そんなに俺にフラれたことがショックだったのか? そんなに痩せるほどに? ……まあ、今のお前なら俺の隣に立っても不自然ではないから、どうしてもと言うのならば――」
「それはどうも。あ、わたし忙しいので、豚には構わず、どうぞどこかに行っていただいて構いませんよ」
「な――」
マティスの顔にカッと朱が刺したが、シャーリーは素知らぬ顔で再度料理を口に入れて、隠し味研究を再開する。
(もう、あいつがうるさいせいで忘れちゃったじゃないの。ええっと、もう一度最初から……、この燻製肉の上のソースは……)
「おい!」
(柑橘系の香りも入っているのよね。何の柑橘なのかしら? 柚子に近いような気もするけど、この国で柚子なんて見たことがないし……)
「おい! 無視をするなと言っているだろう!」
(柚子のような柑橘に唐辛子のような香辛料……。柚子胡椒が一番近い? でもやっぱりちょっと違う……)
「シャーリー!」
マティスに皿を取り上げられて、シャーリーの思考が中断された。
顔をあげれば顔を真っ赤にして怒っているマティスがいる。シャーリーが無視をしたから怒っているのだろう。しかし、せっかくの料理研究を邪魔されて、今度ばかりはシャーリーもイラっとした。
「やっとこっちを見たか! シャーリー! お前がそんなに俺と元の関係に戻りたいのならば、父上に頼んで再び婚約者にしてやっても――」
(はあ?)
マティスはいったい、どういう思考回路をしているのだろうか。
唐突に復縁話をされて、シャーリーの脳内に「?」がぽぽぽんといくつも浮かび上がる。それと同時に「はん!」と鼻で嗤ってやりたいような気にもなった。
(よくわかんないけど、こいつの頭が異次元につながっているらしいってことだけはわかったわ)
これはあれだ。一度きっぱりはっきりと告げてやらないと、このまま張り付かれて大好きな趣味の時間を妨害され続けるに決まっている。
シャーリーはマティスの手から皿を奪い返した。
「申し訳ございませんけど、わたし――、あなたに興味はございません!」
マティスは、愕然と目を見開いて固まった。
1 婚約破棄されました
それは、一年と少し前のこと――
「いやあああああ! わたしの体が! わたしの顔が‼ 子豚みたいになってる――――――!」
シャーリー・リラ・フォンティヌスは前世の記憶を取り戻すとともに、鏡の前の自分の姿を見て絶叫した。
☆
その日も、いつもと変わらない夕方になるはずだった。
小日向佐和子。三十二歳独身。職業、料理研究家。
大学を卒業して、上場していることだけが取り柄のような可もなく不可もない平々凡々な会社に就職。事務をする傍ら、趣味で続けていた料理ブログが注目されて、レシピ本が出版されることになったのは佐和子が二十八のときだった。
雑誌の取材を受けたのをきっかけに何度かテレビのゲストに呼ばれるようになって、気がついた時には、あれよあれよと雑誌やテレビに引っ張りだこになって、忙しい日々を送るようになっていた。
自分で言うのもなんだが、そこそこ美人な料理研究家として名前も売れて、就職していた企業もやめ、あっという間に三十二歳。
なにもかもうまくいっていると言っても過言でないほど充実した日々を送っていた佐和子が事故に巻き込まれたのは、新しい料理本の打ち合わせで、出版社を訪れた帰りのことだった。
キキーッという耳をつんざくようなブレーキ音。
けたたましいクラクションに振り返るわずかな時間すらなく。
ドン! という衝撃とともに、佐和子の意識は一瞬にして闇に飲まれた。
☆
ああ、死んだな――
死んだはずの頭が、そんなことを考える。
強い衝撃を感じたけれど、そのあと痛みもなにも感じなかったから、きっと即死だったのだろう。
短い人生だった。幸せだったけど、ちょっと早すぎる。
(もっとたくさん料理がしたかったな)
さすがに死んだら料理はできないだろう。
死ぬ前に一度くらい結婚だってしてみたかった。
できることならあと十冊くらいレシピ本を出したかったし、料理番組もやってみたかった。
いっぱいやり残したことがあるのに、本当に残念だ。あのとき周囲にもっと気を配っていれば、突っ込んできた車に轢かれることもなかっただろうか。
(はあ……、彼氏もいないまま死んじゃうなんて……)
「お前との婚約は今日を持って破棄させていただく!」
(……うえ?)
どうして死んじゃったのだろうと泣きそうになっていた佐和子は、突然知らない声に婚約破棄を宣言されて驚いた。
(なんですと?)
生まれてこの方、誰かと婚約したことなんて一度もない――と目をしばたたいた瞬間、誰かに突き飛ばされたような強い衝撃を受けた。真っ暗だった目の前が急に明るくなる。
突如として視界が変わって、茫然とした佐和子がいたのは、驚くほど豪華で広い部屋の中だった。
(……ここ、どこ? テレビ局、じゃないわよね?)
きょろきょろと部屋の中を確かめて、テレビ局にこんな豪華な部屋はあっただろうかと考える。車に轢かれたと思ったのは夢の中の出来事で、実は死んでいなくて、テレビの収録に来ているのではないかと錯覚しそうになって、はたと気がついた。
部屋の豪華さにばかり気を取られていたけれど、目の前に、すごい形相でこちらを睨みつけている十六、七歳ほどの美少年がいる。
金髪碧眼。どこの外国人だと首をひねった直後には、彼が着ているごてごての、まるで中世のお貴族様が着ているような衣装に唖然とした。
(あれ? ドラマの撮影? ……いやいや、わたし、女優業はしてないし!)
佐和子の演技力は壊滅的だ。
料理研究家としてテレビのゲストに呼ばれることも多かった佐和子は、一度だけ、ドラマのチョイ役をしてみないかと所属していた事務所のマネージャーに言われたことがあったが、全力で拒否させてもらった。佐和子にできるのはせいぜい通行人Aくらいだ。セリフが入った時点で即アウト。妄想はできても演技はできない三十二歳なのだ――いや?
佐和子はふと、もう一つ違和感を覚えた。
佐和子の身長は百六十三センチ。日本女性の平均身長よりも少し高かった佐和子の視界は、こんなに低かっただろうか。
座っているわけではない。立っている。それなのに、いつもよりだいぶ視界が低い気がする。
(目の前の子が誰かもわかんないし、いったいどういうこと?)
まったく状況が理解できない佐和子が首を傾げつつ考え込んでいると、目の前のアイドル系美少年がイライラしたように怒鳴った。
「聞いているのか! ぷくぷくと豚のように丸いとは思っていたが、見た目だけではなく、まさか頭の出来まで豚程度なのかお前は!」
(なんですって?)
佐和子は「豚」という単語にぴくりと眉を揺らした。
豚とは失礼な! 丸いとはどういうことだ!
料理研究家だった佐和子はダイエッターでもあった。その料理の知識を生かして、数々のダイエット本を出版していたし、もちろん自身の体型管理も徹底していた。週に一度ジムにも通い、月に二度はマッサージに通って、ボディーラインを引き締めることも忘れない。並々ならぬ努力の結果、出るところは出て、引っ込むところは引っ込む、誰もがうらやむナイスバディ(自称)を手に入れた佐和子に向かって、豚とか丸いとか、何たる暴言!
本気でムカついた佐和子は、一回り以上年下だろう美少年に向かって、大人げなくキレそうになった――けれど。
怒りのあまりふと握りしめた自分の握りこぶしの感触に、ん? と首をひねる。
(柔らかい……?)
自分の手は、こんな感触だっただろうか?
なんだか、記憶にある手よりも厚みを感じる。そして、小さい。握ったときに感じる親指の付け根の肉はこんなにふにふにしていただろうか?
佐和子は何げなく視線を落として、自分の手を見つめた瞬間、ヒッと悲鳴を上げた。
慌てて目の前で手を広げて、再び「ひい!」と声をあげる。
(うそおおおおおお!)
小さい。丸い。分厚い。どうしてこんなに指が太い? いやいや、そもそもどうして手のひらにこんなに肉がついているのだろう。
(あ、あれだけ指を補足するためにがんばったわたしの、わたしの細い手が……七号は無理だったけど、九号サイズはキープした、薬指が――!)
佐和子の手は一般女性のそれよりも少しだけ大きかった。それが小さなコンプレックスだった佐和子は、念入りに手をマッサージして、毎日むくみを取り、できるだけ華奢に見えるように努力に努力を重ねて着たのである。その手が、丸い。――絶望だ。
がっくりとその場に膝をつきそうになった佐和子は、ふと、そもそもこの手は自分の手だろうかと疑問を持った。
そう、佐和子の手にしては小さい。
(……ちょっと待って)
手ばっかりに気を取られていたが、着ている服にも違和感があった。七五三――という言葉が脳裏をよぎるほどの、ふりふりひらひらしたピンク色のスカート。少なくとも、三十二歳が着るようなスカートには見えない。
(どういうこと?)
佐和子は部屋の中に姿見を発見すると、目の前の美少年をほっぽりだして、猛然と鏡に向けてダッシュした。――いや、ダッシュしたつもりだった。実際は恐ろしく体が重くて、まるで亀の歩みのようなのろさだった。ちょっと動いただけなのにぜーぜーと息が切れる。
(ど、どうなってるの?)
広い部屋だと言っても、部屋の隅の姿見まで行くのに何分もかかるわけではない。そのわずかな距離を走っただけで息が切れるとは、どういうことだろう。
やっとのことで鏡の前にたどり着いた佐和子は、そこに映った自分を見て、彫像のように凍りついた。
(……え?)
佐和子の頭の中にいくつもの疑問符が浮かぶ。
鏡に映っている少女(、、)は、おおよそ十三歳か十四歳くらいだろう。つやつやとした蜂蜜色の柔らかそうな髪にエメラルド色の瞳をしている。……この時点であんた誰よって感じだが、ひとまずそちらの疑問を考えるのは置いておこう。そうしなければ口から魂が飛び出して行きそうだ。
着ている服も、やっぱりふわふわごてごてのピンクのゴスロリだった。七五三ドレスがかわいく思えるほど、盛に盛ったドレスである。だが、これも、まあいい。
そんなことが些末にも思えるほどの一番の問題は――
「いやあああああ! なにこのおデブな体型は! 丸い! 確かに丸い! わたしの体が! わたしの顔が‼ 子豚みたいになってる――――――! いやあああああああああああっ」
佐和子は頭を抱えて絶叫した。
佐和子のうしろでアイドル系美少年がドン引きしている顔が鏡に映っているが、そんなことも気にならない。
とにかく、目の前の鏡に映った現実が、佐和子には許容できなかった。
顔が違う? そんなこともどうでもいい。
年齢が違う? それも今は関係ない。
(丸い丸い丸い丸い丸い――――! わたしの、わたしの努力の結晶が……。絶対来ないだろうけどグラビアどんと来いだった、磨き上げたわたしの体が……)
絶望だ。こんなことはありえない。そう、悪夢だ。きっと夢を見ているのだ。だって佐和子は――
「あ、そうよ。死んだんだったわ!」
佐和子はポン! と手を打った。
だったらこれは夢だろう。死人が夢を見るのかという疑問は遠くに投げ捨てておく。夢だ。なーんだ。よかったよかった。
すべての疑問も矛盾もそっくり無視して、自分自身を納得させて胸をなでおろした佐和子の背後で、こほんと咳払いが聞こえた。
唖然としていた美少年が立ち直ったらしい。
「ようやくお前も理解できたか。ならばいい。とにかく、僕とお前の婚約は今日で解消だ。父上にも伝えておくからな。それもこれも、すべてお前が悪いのだ。この僕がお前のような豚を連れ歩くわけにはいかないからな。一族の恥だ」
後ろで相当なことを言われているが、「夢」だと認識した佐和子の耳には入らない。
(こんな悪夢からは早く覚めないと。いくら夢の中でもこの体型はないわぁ。糖尿病高血圧、心筋梗塞、動脈硬化――絶対長生きできない。考えただけでゾッとするわね。……顔立ちは可愛いけど、でもこーんなに顔に肉がついているのはいただけない――いた!)
どうやったら子供の顔にこんなに肉がつくのだろうかと頬を引っ張った佐和子は、感じた痛みに首を傾げた。痛い。どういうことだろう。
鏡の自分と睨めっこをしながら、もう一度頬を引っ張ってみる。やっぱり痛い。夢の中では痛みを感じないという大原則は、嘘っぱちだったのだろうか。
「おい! 人の話を聞いているのか!」
きれいさっぱり無視された美少年はイライラしてきたらしい。
つかつかと佐和子に近づくと、その腕をぐいっと力いっぱい引っ張った。
「聞いているのかと――っわぁ!」
「きゃあああ!」
途中で言葉を呑み込んだ少年が驚いたような声をあげる。
佐和子も悲鳴を上げて、そのまま後ろにひっくり返った。彼が引っ張った勢いでうしろ向きに転んでしまったのだ。
まさか丸太のように太い足が引っ張っただけでぐらつくとは思っていなかったのだろう。佐和子に向かって容赦なく辛辣な言葉を浴びせていた美少年も、さすがに佐和子がひっくり返ると狼狽えたようだった。
「お、おい、大丈夫か……?」
心配そうに顔を覗き込まれるが、佐和子はそれどころではなかった。
仰向けに倒れたまま、佐和子は茫然とする。
倒れた拍子に頭を打ったからなのか、突如として佐和子の頭に膨大な情報が駆け巡った。
まず、このぷくぷくした少女――自分は、佐和子ではない。
シャーリー・リラ・フォンティヌス。十四歳。フォンティヌス伯爵家の娘で、仲睦まじい両親と兄が一人。
そして、目の前で罵詈雑言を吐きまくっていた失礼極まりない美少年の名は、マティス・オスカー・オーギュスタン。十六歳。オーギュスタン侯爵家の嫡男で、シャーリーの婚約者(ただいま婚約破棄を突きつけられ中)だ。
佐和子は読書家ではなかったけれど、流行りのものにはいくつか目を通していた。その中に「異世界転生」もののライトノベルがあったけれど、――異世界転生とは、現実に起こりえることなのだろうか。
(この年になって異世界生活――いやいや、一応十四歳らしいけど、留学すらしたことないのに、どうしろっていうの……)
あまりの現実に脳がオーバーヒートを起こしたのか、くらりと眩暈を覚えた佐和子――いや、シャーリーは、仰向けに倒れたまま意識を失った。