次回作仮題名 虎口の追憶〜左門編〜の冒頭テスト本文です。試しに書いてみました。ご意見頂けると嬉しいです。
第一話 真夏の雪
「生か死か。笑うは俺か、仏かな。庚寅左門、いざ」
声は、崖上の闇にだけ落ちた。
庚寅左門(かのとら・さもん)は、片足に縄を絡めた。縄の先は、夜の中へ伸びている。下には山寺の庫裏。油皿の灯。銃を持つ兵。弾薬箱。刀を下げた用心棒。そして、布の上に置かれた黄金像。
縄が切れれば死ぬ。
足の掛かりが甘ければ、首から庫裏の屋根に叩きつけられる。
振り子の軌道が一尺狂えば、軒先に頭を割られる。
左門は笑った。
怖いか。
怖い。
だから、いい。
次の瞬間、夜が逆さまに笑っていた。
庚寅左門は、崖上から伸びる縄に片足を絡め、頭を下にして山寺の闇へ滑り込んだ。
落ちている。
いや、飛んでいる。
いや、どちらでもよかった。
風が耳を裂き、袴の裾が顔の横で暴れた。汗が額から髪へ逆に流れる。眼下――いや、頭上には、庫裏の屋根が迫っていた。油皿の灯が三つ、地べたに落ちた星のように揺れている。
この一瞬だけは、銭のことも、追手のことも、明日の飯のことも消える。
命が軽くなるほど、身体はよく動く。
庫裏の土間には荷が積まれていた。乾パンの箱、包帯、軍靴、弾薬箱。軍の印を消された木箱。荷札を替えられた薬包。銃を持った兵。刀を下げた用心棒。そして、布の上に置かれた黄金像。
金色の顔が、逆さまの視界の中でぬめるように光った。
左門の口角が上がる。
あれだ。
「上だ!」
柱の影にいた男が叫んだ。
遅い。
左門は身体をひねった。片足に絡めた縄を軸にして、逆さのまま庫裏の軒をかすめる。瓦が一枚、爪先に弾かれて跳ねた。
右手が伸びる。
黄金像の首根を掴む。
重い。
予想より、ずっと重い。
肩に痛みが走った。腕の筋がきしむ。だが、その重みが左門をさらに笑わせた。
軽い仏など、盗む価値がない。
「ありがとよ」
左門は黄金像を胸に抱え込んだ。
「軍の仏様は、よく肥えてる」
怒号が弾けた。
「撃つな!」
「弾薬箱がある!」
「像に当てるな!」
左門はその声を、背中で聞いた。身体はもう反対側へ振り抜けている。夜の空気が肌を撫で、血が頭に集まり、視界の端が赤く滲む。
怖いか。
怖い。
だから笑う。
左門は、笑っていないと死ぬ種類の男だった。
銃声が一つ、夜を割った。
左門の耳元ではない。
足元――いや、頭上の縄が弾けた。
繊維が裂ける音がした。左門の身体がわずかに沈む。縄は切れていない。だが、次の振りには耐えない。
「へえ」
左門は笑った。
「上手いやつがいる」
予定では、縄に足を残したまま反対側の杉へ流れ、枝を蹴って谷へ逃げるはずだった。だが黄金像が重い。縄は傷んだ。軌道は低い。
このままでは、寺の裏手の石垣に潰れる。
左門は、足首をひねった。
縄を外す。
その瞬間、世界から支えが消えた。
黄金像を抱えたまま、左門は夜の中に放り出された。
風。
瓦。
怒号。
油皿の火。
白い荷札。
銃口。
黄金の顔。
全部が一息で流れた。
左門は身体を丸め、肩から枝へ飛び込んだ。
指が葉を裂く。枝先を掴む。滑る。爪が剥がれかける。
それでも、笑った。
まだ落ちていない。
落ちていないなら、勝ちだ。