黒沼剱は科学万能の物神信仰が生み出した時代の代表的存在ともいえる。
通常悟性の限界ともいえる透徹した相対的意識自体が、ケンにはすでに天性のものとして感覚的に具わっていた。俗によく言う人間の不条理などという歪んだ被害妄想的観念など存在しない。
ケンを前にしては、いかなる崇高な思想も宗教も弱肉強食の一現象にすぎない。
ケンのような存在は、間違いなく人間社会にとっては無価値の害虫的存在であり、その害虫のケンから見ればいわゆる社会そのものが存在していない。あるのは、ただ生き残るための戦いの敵対関係の種々な存在のみである。戦いには武器がいる。又、その武器を使いこなすためには技術がいる。言わば生存の条件自体が全て戦いであり武器でもある。すこぶる単純な原理である。
この単純な原理が正常に作動している場合には何も問題はない。だが、この原理自体に異常が生じたら事は面倒になる。
ケンの原理とするものの考え方は唯物論の視点から見れば何も問題はない。いわゆる死は全てを消しさる。対象となる存在とそれを知覚する存在の消滅によって意識自体が無と化せばそこには自己も世界も無い。これは考えることもないほど明白なことである。
単純な原理とは言い換えれば因果関係が鮮明で明確な合理性を基盤としてしか成立しないと云うことにある。不明なものは不明。分かることは分かる。曖昧は曖昧と。その厳密さの度合いがあるのみで他は全て個人による憶測の空想的主観にすぎない。
極論すれば、唯物論的人間とは物神思想であり、自然界に生息する生きた機械であるという結論に至る。この不気味な存在ともいえる結果を悟性は容認しても感情は容認しない。この奇妙な内的矛盾が個人のあらゆる悲喜劇を生み出す。又、自他をも含めた内外の戦いの要因ともなる。人類史そのものがそれらの戦いの現象の記録にすぎない。
たとえ時代や環境が変わってもこの原理そのものが変化しない限りは方法や名称が変化してもその内実が変わることはない。
その意味では、黒沼剱は科学万能の物神信仰が生み出した時代の落とし子の代表的存在ともいえる。
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