• ミステリー
  • エッセイ・ノンフィクション

🐞高村光太郎「道程」より

「道程」

どこかに通じてゐる大道を僕はあるいてゐるのぢやない

僕の前に道はない
僕の後ろに道は出来る

道は僕のふみしだいて来た足あとだ
だから
道の最端にいつでも僕は立つてゐる

何といふ曲がりくねり
迷ひまよつた道だらう

自堕落じだらくに消え滅びかけたあの道
絶望に閉ぢ込められかけたあの道
幼い苦悩にもみつぶされたあの道

ふり返つてみると
自分の道は戦慄に値ひする
支離滅裂な
又むざんな此の光景を見て
誰がこれを
生命の道と信ずるだらう

それだのに
やつぱり此が生命に導く道だつた
そして僕は此処まで来てしまつた
このさんたんたる自分の道を見て
僕は自然の広大ないつくしみに涙を流すのだ

あのやくざに見えた道の中から
生命の意味をはつきり見せてくれたのは自然だ
僕を引き廻しては眼をはぢき
もう此処と思うふところで
さめよ、さめよと叫んだのは自然だ
それこそ厳格な父の愛だ

子供になり切つたありがたさを僕はしみじみと思つた
どんな時にも自然の手を離さなかつた僕は
たうとう自分をつかまえたのだ

恰度そのとき事態は一変した
俄に眼前にあるものは光を放射し
空も地面も沸く様に動き出した
そのまに
自然は微笑をのこして僕の手から
永遠の地平線へ姿をかくした

そして其の気魄《きはく》が宇宙に充ちみちた
驚いてゐる僕の魂は
いきなり「歩け」といふ声につらぬかれた
僕は武者ぶるひをした
僕は子供の使命を全身に感じた
子供の使命!

僕の肩は重くなつた
そして僕はもうたよる手が無くなつた
無意識にたよつていた手が無くなつた
ただ此の宇宙に充ちみちてゐる父を信じて
自分の全身をなげうつのだ
僕ははじめ一歩も歩けないことを経験した

かなり長い間
冷たい油の汗を流しながら
一つところに立ちつくして居た
僕は心を集めて父の胸にふれた
すると
僕の足はひとりでに動き出した

不思議に僕は或る自憑《じひょう》の境を得た
僕はどう行かうとも思はない
どの道をとらうとも思はない
僕の前には広漠とした岩畳な一面の風景がひろがつてゐる
その間に花が咲き水が流れてゐる
石があり絶壁がある
それがみないきいきとしてゐる
僕はただあの不思議な自憑の督促のままに歩いてゆく

しかし四方は気味の悪い程静かだ
恐ろしい世界の果てへ行つてしまふのかと思ふ時もある
寂しさはつんぼのように苦しいものだ

僕は其の時又父にいのる
父は其の風景の間に僅かながら勇ましく
同じ方へ歩いてゆく人間を僕に見せてくれる

同属を喜ぶ人間の性に僕はふるへ立つ
声をあげて祝福を伝へる
そしてあの永遠の地平線を前にして
胸のすく程深い呼吸をするのだ

僕の眼が開けるに従つて
四方の風景は其の部分を明らかに僕に示す
生育のいい草の蔭に小さい人間のうぢゃうぢゃ
匍はひまはつて居るのもみえる

彼等も僕も
大きな人類といふものの一部だ
しかし人類は無駄なものを棄て腐らしても惜しまない

人間は鮭の卵だ
千万人の中で百人も残れば
人類は永久に絶えやしない
棄て腐らすのを見越して
自然は人類の為め人間を沢山つくるのだ
腐るものは腐れ
自然に背いたものはみな腐る
僕は今のところ彼等にかまつてゐられない

もつと此の風景に養はれ育まれて
自分を自分らしく伸ばさねばならぬ
子供は父のいつくしみに報いたい氣を燃やしてゐるのだ

ああ
人類の道程は遠い
そして其の大道はない
自然の子供等が全身の力で拓いて行かねばならないのだ

歩け、歩け
どんなものが出て来ても乗り越して歩け
この光り輝く風景の中に踏み込んでゆけ

僕の前に道はない
僕の後ろに道は出来る

ああ、父よ
僕を一人立ちにさせた父よ
僕から目を離さないで守ることをせよ
常に父の気魄を僕に充たせよ
この遠い道程のため





コメント
この詩、辛いとき、何回も読みます。励まされる。魂の言葉なんだなあ。

コメント

コメントの投稿にはユーザー登録(無料)が必要です。もしくは、ログイン
投稿する