同棲生活が始まって、まだ半月ほどが過ぎた頃の週末。
その日の朝も、晴恵はいつものように美那子より早く目を覚まし、二人分の朝食を作り終えていた。
トーストの焼ける香ばしい匂いと、淹れたてのコーヒーの香りがリビングに満ちる頃、寝室のドアがゆっくりと開き、眠たげに目を擦りながら美那子が姿を現した。
「おはよう、晴恵……」
「おはよう、美那子。ちょうどコーヒーが入ったところだよ」
「ん、ありがとう……」
カウンター席に座った美那子は、マグカップを両手で包み込むように持ち、ふう、と小さく息を吐いた。寝起きの、少し隙のある美那子もまた、晴恵にとっては胸が苦しくなるほど愛おしい姿だった。
しかし、その日の美那子はどこか浮かない顔をしていて、トーストをかじる前に、テーブルの上に置いた自分のスマートフォンを恨めしそうに睨みつけた。
「どうしたの? 朝から難しい顔をして」
晴恵が向かいの席に座りながら尋ねると、美那子は大きなため息をついてスマホの画面を晴恵に向けた。
そこには、メッセージアプリのトーク画面が表示されており、『美那子へ』から始まる長文がずらりと並んでいた。
「お母さんから、またLINEが来たのよ。本当に女の子と同棲してるのか、ただのルームシェアじゃないのかって。口先だけならなんとでも言えるから、ちゃんと『恋人同士』だと分かる証拠の写真を送れってうるさくて」
「えっ……証拠の写真?」
「そう。だからね、晴恵」
美那子は身を乗り出し、晴恵の目を真っ直ぐに見つめた。その真剣な眼差しに、晴恵の心臓がドクンと大きく跳ねる。
「今日、私とデートしてくれない? 外で、いかにも『ラブラブなカップル』っぽく見えるツーショット写真を何枚か撮って、親に送りつけたいの」
「デ、デート……!?」
晴恵は思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。
美那子とデート。その甘美な響きに、隠していた恋心が暴れ出しそうになる。だが、これはあくまで親を騙すための「偽装」なのだと、晴恵は必死に自分に言い聞かせた。
「わ、分かった。美那子が困ってるなら、協力するよ。でも、私なんかで本当に恋人に見えるのかな……」
自信なさげに俯く晴恵を見て、美那子はふふっと悪戯っぽく笑った。
「そこは私に任せて。せっかくの初デートなんだから、晴恵を最高に可愛くプロデュースしてあげる!」
朝食もそこそこに、美那子は晴恵の手を引いて寝室のクローゼットへと向かった。
「うーん、晴恵は肌が白いから、絶対にパステルカラーが似合うと思うのよね。あ、これなんかどう?」
美那子が取り出したのは、彼女が以前着ていたという、上質なシルク混のミントグリーンのワンピースだった。地味なパンツスーツか、色気のない部屋着しか持っていない晴恵にとっては、見ているだけで目が眩みそうな代物だ。
「えっ、こんなの私には似合わないよ! 若すぎるというか、華やかすぎて……」
「そんなことない! 騙されたと思って着てみて。ほら、早く早く!」
半ば強引に押し付けられ(晴恵は恥ずかしさで顔から火が出そうだった)、ワンピースに袖を通す。さらに美那子は晴恵をドレッサーの前に座らせると、手際よくメイクを施し始めた。
「晴恵は元々のパーツが整ってるから、少し色を乗せるだけで見違えるはずよ。アイシャドウは薄いブラウンで、リップは少し艶感のあるコーラルピンクにして……」
美那子の細く冷たい指先が晴恵の頬や唇に触れるたび、晴恵は呼吸をするのさえ忘れてしまいそうになった。至近距離にある美那子の顔、真剣な瞳、そして微かに香るフローラルな香水。すべてが晴恵の理性を激しく揺さぶる。
「……よし、完成!」
「えっ……これが、私?」
鏡の中を覗き込んだ晴恵は、信じられないものを見るように目を丸くした。
いつもは無造作に結んでいるだけの黒髪は、美那子の手によって緩やかに巻かれ、ハーフアップにまとめられている。薄化粧しかしない顔には、血色の良い艶やかなメイクが施され、ミントグリーンのワンピースが晴恵の隠れた透明感を最大限に引き出していた。地味でパッとしない事務職のOLはどこにもおらず、そこには清楚で可憐な大人の女性が座っていた。
「ほらね、やっぱり私の見立て通り。すっごく可愛いよ、晴恵」
美那子は満足げに頷きながらも、内心で微かな動揺を覚えていた。
可愛い……本当に。
なんだか、他の誰にも見せたくないくらい。
そんな自分の不可解な独占欲に首を傾げながらも、美那子は「さあ、出発しましょ!」と晴恵の背中を押した。
(つづく)
本編は、今日の18:00に更新予定です(ↀ⩊ↀ)