10話まで書いたら、更新を始めようと思います。現在は9話のプロット作成中です。
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翌朝。
固い木枠のベッドの上で目を覚ますと、隣のベッドには誰もいなかった。
乱れた毛布の様子からして、昨夜はそこで寝ていたようだ。部屋の中はひどく静かに感じられた。
一階の酒場へと下りていくと、朝の光が差し込む店内の隅で、昨晩から突っ伏して寝ている泥酔客が一人いるだけで、やはりジョンソンさんの大柄な姿は見当たらなかった。
カウンターで仕込みの作業をしていた店主に尋ねると、「ああ、ジョンソンなら、夜明け前に一度、貴族街の自分の屋敷に帰るって言って出て行ったぜ」と教えてくれた。
着替えでも取りに帰ったのだろうか。
いつ戻ってくるのかは分からない。ただ、この見知らぬ異世界で、唯一まともに会話ができる大人が一時的にでも側にいないという事実に、俺はほんの少しだけ心細さを覚えた。
だが、いつまでもあの老兵の背中に隠れているわけにはいかない。王宮には、まだタツキさんたち四人が残されているのだ。彼らを助け出し、この狂った国から脱出するためには、俺自身が動いて「外の世界」の情報を集めなければならない。
(……でも、行動を起こすにしても、まずは『金』だな)
ポケットに入った革ポーチの重みを確認する。俺の全財産は、小銅貨五十枚と少しの割銅貨だけだ。日々の宿代と食費を考えれば、二週間と保たない。
情報を集めるにしても、俺にはまだ、情報の「ジョ」の字も手にするツテがない状態だ。ならば、昨日回った組合の中で、一番自分に合っていそうな――つまり、力仕事や命の危険が少なく、様々な物資や人が集まる場所へ行くのが得策だ。
「店主さん、ちょっと表に出てきます。『商業組合』に行ってみようかと」
「お、そうか。仕事探しだな。精々気をつけて行ってきな」
店主に一声かけて、酒場の扉に手をかけた時だった。
――ゴォォォン……、ゴォォォォン……。
遠くの聖堂の方角からだろうか、重低音の鐘の音が、城下街の空気を震わせるように響き渡った。
この街の人々が何を基準に生活しているのかはまだよく分からなかったが、道行く人々がその音を聞いて歩調を早めたり、荷車の準備を始めたりしているのを見ると、何かしらの時間を知らせる合図なのだろう。
その鐘の音に背中を押されるように、俺は酒場の外へと足を踏み出した。
「うっ……」
外に出た瞬間、生ゴミと下水、それに得体の知れない獣臭が混ざった王都特有の悪臭が、容赦なく鼻腔を殴りつけてきた。
一瞬、酒場に戻って匂い誤魔化しのためのエールを一杯煽ろうかという誘惑に駆られたが、すぐに首を振って打ち消す。流石に、朝からアルコールの匂いをプンプンさせて仕事をもらいに行くなど、常識的に考えてありえない。
俺は「絶対に鼻で息をしない」と固く心に誓い、口呼吸だけを意識しながら、商業組合へと続く石畳の道を歩き出した。
§
昨日も訪れた、立派な石造りの商業組合の建物。
その大きく開け放たれた入り口の扉をくぐろうとした、その矢先だった。
「――失礼します」
バフッ!!
「ぶはっ!? ゲホッ、ゴホッ! な、なんだ!?」
突然、目の前が真っ白になった。
入り口の脇に立っていた紳士風の身なりをした男が、突然粉末を振りかけてきたのだ。
中学に入る前に、元友人の悪ふざけで黒板消しを顔面に叩きつけられた時の記憶がフラッシュバックする。俺はむせ返りながら、慌てて顔についた粉を払い落とした。
「な、何をするんですか!?」
「『匂い消し』の粉です。当組合は、清潔と品位を重んじております。外の街の酷い悪臭を纏ったまま入館していただくわけにはいきませんので」
紳士は、手元の粉袋をパンパンと払いながら、極めて事務的な口調でそう言い放った。
(そんなに、俺って臭かったのか……?)
ショックを受けつつ、自分の袖口の匂いを嗅いでみる。すると、鼻をつくような王都の悪臭はすっかり消え去り、代わりに少し薬草臭さはあるものの、ミントにも似た思った以上に爽やかな香りが漂ってきた。確かに、これなら屋内に悪臭を持ち込まずに済む。
「……なるほど。でも、昨日はこんなことされませんでしたよ?」
「昨日は、貴方様が『第三騎士団長』であらせられるジョンソン様とお連れでしたので。流石に騎士団長様に粉を浴びせるわけにもいかず……私共も、息を止めて我慢しておりました」
紳士は、苦虫を噛み潰したような顔でそう言った。
身分という絶対的な力の前に、彼らも必死に耐えていたらしい。これが「権力の差」というやつか。
「ご理解いただけましたかな? 今回は入り口で処置いたしましたが、本来はこの粉、街の薬草店で事前に購入して身を清めてから来館していただくのが我々のルールです。価格は一袋で『小銅貨一枚』となっております」
「……小銅貨、一枚」
俺は思わず顔を引き攣らせた。
一泊の宿代が小銅貨四〜五枚のこの街で、ただ入り口をくぐる前の匂い消しのためだけに、小銅貨一枚を消費する。一日一回ここに来るだけで、宿代の五分の一が飛んでいく計算だ。
商業組合、恐るべし。
「とにかく、次からは匂いを何とかしていない場合は容赦なく追い出しますからね。必ず購入し、使用してから入店しなさい」
「……はい。気をつけます」
釘を刺してくる紳士に曖昧に頷き、俺は居心地の悪さを感じながら、そそくさと建物の奥へと進んだ。
§
商業組合の窓口に並び、順番を待ってから、受付の女性に「今日から仕事を探している」という旨を伝えた。
女性は、俺が差し出した身分証代わりの木製タグを受け取ると、そこに彫られた『見習い』の文字と俺の顔を交互に見比べ、あからさまに訝しげな顔をした。
「……少々、お待ちください。担当の者を呼びますので、あちらの待合席でお待ちを」
突き放すように言われ、俺は窓口から離れて、人の多いテーブル付きの待合スペースの長椅子に腰を下ろした。隣では、男が必死になって書き物をしている。
さらに周囲を見渡すと、冒険者組合にいたような武装した粗野な男たちは一人もおらず、ほとんどの人がパリッとした清潔な身なりをしていた。だが、清潔だからといって穏やかなわけではない。皆、どこか目つきが鋭く、他人の持ち物や身なりを値踏みするような「商人」特有の視線を放っている。
奥にある倉庫区画や荷捌き場らしき場所からは、「そこの荷車を早くどかせ!」「数が合わねえぞ!」といった怒号がひっきりなしに飛び交っていた。冒険者組合の澱んだ空気とは全く違う、ピリピリとした凄まじい活気と熱量に満ち溢れている。
「あーっ、くそっ! また違う!」
隣から、突如として語気の荒い声が聞こえた。
ビクッとして横を見ると、隣に座っていた二十代後半くらいの男が、片手でガシガシと頭を掻きむしりながら、鉄筆で蝋引きの木版を擦り、何かを書き込んでは消すという作業を繰り返していた。
(何を書いているんだろう?)
チラリと横目で覗き込んでみると、どうやら何かの『帳簿』らしきものだった。
酒場の店主が見せてくれたものよりも文字は綺麗に整っているのだが、書かれている内容が、俺から見ても素人目に見ても、恐ろしく「ゴチャゴチャ」していた。
何枚かの木版を見比べてみる。書かれている内容自体に間違いはなかった。
今日仕入れた品物。売れた商品。支払った代金。受け取った代金。
その日に起きた出来事が、発生した順番に記されているだけだ。しかしバラバラだ。
(……これじゃ、後から集計するのが大変だろ)
商品ごとの利益を調べようと思えば、何枚もの木版を行ったり来たりしなければならない。
在庫の増減を確認するだけでも同じことだ。
記録としては間違っていない。
だが、数字を整理するにはあまりにも非効率だった。
確かに「その日の記録」としては正しいのだろう。だが、これでは後から「リンゴは結局いくら儲かったのか」「エールの在庫はいくつか」を計算しようとした時、一枚一枚の木版から該当する項目を拾い集め、足したり引いたりしなければならない。
電卓すら存在しないこの世界で、こんな記述方式で正確な月次計算などやろうものなら、それだけで発狂してもおかしくない。
「あぁぁ、提出は今日なのにっ……!」
男は、ついに喉の奥から獣のような悲痛な唸り声を上げ始めた。木版を睨みつける目は血走り、今にも発狂して暴れ出しそうな雰囲気だ。
(余計なお世話だよな……)
そう思ったが、隣でずっと唸り声を上げられ続けては、こちらの気も休まらない。
非効率すぎる木版を見過ごすのは、なんだかひどく気持ち悪かった。
俺は何となく、男に向かって口を出してしまった。
「あの、それぞれを『分けて』、並べて書いたほうが良いのではないでしょうか?」
ピタッ、と。
男の手が止まり、ゆっくりとこちらを向いた。
「……は?」
その真顔には、明らかな怒気と「素人のガキが口出しするな」という苛立ちが含まれていた。
(やっぱり、余計なお世話だった)
「すみません。出しゃばったマネをして。忘れてください」
俺はすぐに頭を下げて謝罪した。関わらないのが一番だ。
しかし男は、俺から視線を外して自分の手元――まっさらに削り直した計算用の木版を眺め、深く首を傾げ始めた。
「あー、くっそ! ここまで来てるってのに……!」
男は首のあたりを苛立たしげに手でこすった後、何かを諦めたように、縋るような目で俺を見た。
「……すまんが。お前が今言ったの、どうすれば書けるんだ? 教えてくれ」
俺は小さく頷くと、男から鉄筆とまっさらな木版を受け取った。
そして、数枚に分かれた彼の帳簿(木版)を見比べながら、真っ白な木版に拙い線で縦と横の『表』の枠組みを引き始めた。
「一番左に『日付』。その隣に『品名』の種類。そして『仕入れ値』『出荷数』『販売価格』『最終的な売り上げ』……という風に、項目ごとに縦の列を作ります」
俺は説明しながら、男のゴチャゴチャした木版から最初の数行分のデータを読み取り、新しい表の枠内に書き写していった。
これなら、下に向かって足し算をするだけで、品物ごとの利益も一目で分かる。酒場の奥さんにもこの書き方を教えてあげれば、半日かかっていた計算が数十分で終わるんじゃないか、などと考えながら書き進めていると。
「――ミヒト・ゴクウ。ミヒト・ゴクウは居るか?」
窓口の奥から、俺の名前を呼ぶ声が聞こえた。
「あ、呼ばれたんで、すみません、途中で」
俺は鉄筆を置き、書きかけの表が描かれた木版を男に返した。
「あとは、これと同じように、下の行に似たように並べて書いていけば、ずっと計算しやすいはずですよ」
途中で放り出されたというのに、男は怒ることもなく、ただ俺が作った『表計算』の木版を、穴が開くほど無言で眺め続けていた。
俺は彼に軽く会釈をし、声がした窓口の奥へと向かった。
§
仕事を紹介してくれる担当者が出るのかと思いきや、俺は窓口の脇にある木製の半扉を抜けるように指示され、建物のさらに奥にある、重厚な扉の前に案内された。
(仕事の紹介って、いきなり個室の面接から始まるのか?)
少し首を傾げたが、言われるがままにするしかない。
俺は扉の前に立ち、中学校での進路指導や面接練習で叩き込まれた記憶を呼び起こした。
コン、コン、コン。
扉を三回ノックする。
しばらく待たされた後、中からくぐもった声で「入れ」という短い返事があった。
俺はドアノブを回して部屋へと足を踏み入れ、
「失礼します」
と、はっきりとした声で挨拶をした。
(確か、ドアを閉める時は、大きな音を立てちゃダメなんだよな)
面接指導の先生の顔を思い浮かべながら、俺は振り返り、カチャリと音がしないように静かに扉を閉めた。
向き直った部屋の中は、待合室の喧騒が嘘のように静まり返った、豪奢な応接室だった。
部屋の中央には、革張りの高級そうなソファーとテーブル。そして奥の執務机の前に、一人の男が立っていた。
太っているというか、筋肉質の上に分厚い脂肪が乗ったような、大柄な男だった。黄土色の仕立ての良い背広に、模様入りの蝶ネクタイ。長い髪は、何かの整髪料でテカテカとオールバックに撫でつけられている。
そして何より目を引いたのは、口元に葉巻らしきものを咥えたその顔の、見事に『割れた顎』だった。マフィア映画や漫画に出てくる「偉そうな裏社会のボス」というイメージをそのまま具現化したような第一印象だ。顔の他のパーツがどうなっているのか、ケツアゴのインパクトが強すぎてどうでもよくなるほどだった。
目の前にソファーがあったが、「座れ」とも言われていないので、俺は扉の前に立ったまま、両手を体の横にピタリとつけ、背筋を伸ばして直立不動の姿勢を保った。
しばらくの間、沈黙が落ちた。
男は咥えていた葉巻を指に挟み、ゆっくりと紫煙を吐き出してから、低い声で口を開いた。
「……昨日の入会審査の筆記試験。満点という異常な早さと正確さから、てっきり何か魔法具でも使った『不正』があったのだと聞いていたのだがな」
男は、値踏みするような鋭い目で俺を頭からつま先まで舐め回すように見た。
「その洗練された『仕草』は……一体、何処で習った?」
(仕草?)
俺は何の話だろうと首を傾げたが、心当たりが全く思いつかない。ただ突っ立っているだけだ。
俺の戸惑いを見て、男は葉巻の灰を落とし、続けた。
「……今、この部屋の扉を入って来た時のことだ。どうやって入って来た?」
「あぁ」
俺は合点がいった。面接の時の入室マナーのことか。
「学校で習いました」
俺が正直に答えると、男の眉がピクリと跳ね上がった。
「学校……だと? そのような高度な礼法を教えるのは、王立の『貴族科』の学校くらいしかないはずだが……。君、名前は何と言う?」
「ミヒト・ゴクウです」
「ミヒト……ミヒト家?」
男は首を傾げた。「聞いたことのない貴族の名だ……最近になって新しく召し上げられた成り上がりか……? あ、いや……しばし待て」
男は葉巻の火を灰皿に押し付けて消すと、自分の執務机の後ろの棚から、辞書のように分厚い書物を引っ張り出してきた。そして、パラパラとページをめくり、『ミヒト』という貴族の家名を本気で探し始めようとした。
(いや、貴族じゃなくて、苗字と名前なんだけど……)
訂正しようと口を開きかけた、その時だった。
バーーーンッ!!
俺の背後にある扉が、乱暴に開け放たれた。扉から距離とっておいて良かった。
勢いよく部屋に飛び込んできたのは、先ほど待合室で頭を抱えていた、あの帳簿の男だった。
「スペイド兄貴!! やっぱ俺の計算、間違ってなかったぜ!!」
男は興奮した様子で叫びながら部屋に入ってくると、扉の前に立っていた俺を見て目を丸くした。
「って、おいおい! さっきの坊主じゃねーか! こんなとこで何して……いや、それより本当にありがとうな! お前のおかげで、すげえ早く計算が終わったぜ! あんな魔法みたいな書き方、どこで覚えたんだよ!」
男は上機嫌で、俺から借りていた(というより押し付けた)木版を応接テーブルの上にドンと叩きつけると、俺の両手をガシリと掴んで、まくしたてるように上下に振り始めた。
「あぁ……ええ……。終わったなら、よかったですね」
もの凄い気迫と勢いに押され、俺は引き攣った愛想笑いを浮かべることしかできなかった。
「おい、ジャラック!!」
机の奥で分厚い本を広げていた割れ顎の男――スペイドが、怒鳴り声を上げた。
「部屋に入るときはノックをしろと、何度言ったら分かるんだ!! しかも、もう計算が終わっただと? あれは丸一日かかっても終わらない量のはずだぞ! 俺の前で大ホラを抜かしてるんじゃねーぞ、ジャラック!」
怒髪天を衝く勢いで怒鳴るスペイドに対し、ジャラックと呼ばれた男は全く悪びれる様子もなく、目の前の高級ソファーにドスンと腰を下ろした。
「ホラじゃねえよ、兄貴! ほら、これを見てくれ!」
ジャラックは、自分が持ってきた数枚の木版と、俺が先ほど書いた『表』の木版をテーブルの上に並べ、スペイドに見せつけるように指差した。
「其々の数字を、この坊主が描いた『枠』の中に順番に書いていくだけで、すげー計算しやすいんだ! 日付も品物も一目で分かる! で、最後にこの一番下の列に売り上げを全部書いて足せば、すぐに合計が出るって寸法だっ!」
興奮冷めやらぬ様子で、ジャラックは俺が教えた「ただの表計算」の仕組みを、まるで世紀の大発明でもプレゼンするかのように熱弁し始めたのだった。
テーブルに並べられた木版の束を見比べたスペイドは、自身の執務机から見慣れない道具を取り出してきた。
木枠の中に、金属の細い棒が何本も通され、そこに色とりどりの小さな木の珠が通されている。日本の「そろばん」に似ているが、珠の数が違っていて、少し複雑な構造をしていた。
スペイドは、俺が描いた表の木版とジャラックの持ち込んだ記録を睨みつけながら、パチパチと凄まじい速度で珠を弾き始めた。
(……あの。俺、なんの用で呼ばれたんだっけ?)
完全に蚊帳の外に置かれた俺は、手持ち無沙汰になってしまった。
思ったよりも待たされ、気づけば「休め」のポーズで突っ立っている。
「ほら兄貴、これがここで……」
「ふむむ……!? うむむむ!!」
ジャラックが横から口を出し、スペイドが珠を弾きながら唸る。そんな異様な空間がしばらく続いた。
(今日はもう諦めて、錬金術組合にでも行けばよかったかな……)
俺がひっそりと帰り支度のタイミングを窺い始めた、その時だった。
パァァァンッ!!
とても良い音が応接室に響き渡った。
スペイドが、最後の木版らしきものを持って、ジャラックの頭を思い切り叩いたのだ。
「痛っ!? な、何すんだよ兄貴!」
「この馬鹿モンが! 最後のここの数字、計算が間違ってるじゃねーかっ!」
スペイドの怒声に、ジャラックは涙目で頭を押さえた。
「えー……嘘だろ。俺、三回も数え直したのに……」
文句を言いたげなジャラックに対し、スペイドは休む間も与えずに指示を飛ばした。
「おい、先日まとめた帳簿を全部ここへ持ってこい!」
「はぁ!? 終わったもんをまた引っ張り出してくるのかよ!?」
「いいから持ってこい! この『表』に当てはめて、一から洗い直すぞ!」
スペイドの、獲物を狙う鷹のような鋭い一睨みに、ジャラックは「わ、わかったよ。ちょっと待っててくれ」と慌てて部屋から飛び出していった。
数分もしないうちに、ジャラックは木製の小さな手押し台車に、大量の木版を山のように積んで戻ってきた。
スペイドは俺が描いた『表』の形式を、大きめの別の木版にざっくりと書き写し、積み上げられた大量の木版の整理を始めた。
さすがは商業組合のトップと言うべきか、答えとなる枠組みさえ分かってしまえば、彼が数値を書き写して計算していく速度は尋常ではなかった。
しかし、すぐにスペイドの手が止まった。
「……チッ。どうにも持ってこられた記録の書き方に、統一性がないな」
横から覗き込むと、どうやら取引相手(商人や店)によって、木版への記述の仕方がバラバラらしかった。ある者は個数を先に書き、ある者は金額を先に書いている。これでは、いくら表に書き写すにしてもミスが起きやすい。
「あの、手伝います」
俺は見かねて、台車に積まれた木版の山に手を伸ばした。
「木版を、取引相手ごと……あるいは、似たような書き方をしている人ごとに分けましょう。その方が、書き写す時に頭を切り替えずに済みますから」
俺の提案に、ジャラックが慌てて口を出してきた。
「おいおい坊主! それやっちまうと、取引を受けた『順番』が狂っちまうぞ! 後から日付や時間が分からなくなる!」
「じゃあ、木版の端に『整理番号』をつけてもいいですか? 一、二、三と順番に番号を振っておけば、後でいくらでも時系列に戻せます」
俺が言うと、ジャラックはポカンと口を開け、スペイドは「……構わん。やれ」と即答した。
そこからは、謎の共同作業だった。
俺が木版の端を鉄筆で削ってナンバリングし、取引先ごとに分類(ソート)して束を作る。それをジャラックがスペイドに渡し、スペイドが珠を弾いて表に書き込んでいく。
どれくらいの時間が経過したのだろうか。
ついに全ての木版と、新しく作られた表の照らし合わせが終わった。
スペイドは、完成した表をじっと見つめ……ゆっくりと立ち上がり、再びジャラックの頭を叩こうと手を振り上げた。
「ヒィッ!?」
ジャラックが身構える。
だが、スペイドはその手をピタリと止め、冷徹な声で命じた。
「……昨日、お前と一緒に帳簿をまとめていた連中のところに飛んでいけ。計算ミスで生じた赤字分の補填を、奴らにしてもらうと通達してこい。今すぐだ」
「あ、赤字!? マジかよ……わ、わかった!」
赤字という言葉に顔面を蒼白にさせ、ジャラックは慌てて部屋を飛び出していった。
静寂が戻った部屋で、スペイドがゆっくりと俺の方へ向き直った。
「……君」
「は、はいっ」
俺はビクッと肩を揺らした。間違ったところがあって怒られるのだろうかと、思わず体罰に身構える。
ズンズンと、スペイドの巨体が近づいてくる。
だが――次の瞬間。
スペイドは満面の笑みを浮かべ、俺の右手を両手でガシリと掴み、ブンブンと力強く振った。
「いやぁ! とても聡明な貴族様とは知らず、終始失礼な態度をとってしまい、誠に申し訳ない! 入会試験で不正があったなどと報告を受けていたが……とてもじゃないが、あんな計算速度と情報の整理能力を持つ君に、不正などあり得ん!」
「え……あ、いや……」
「ようこそ、グランディア王国商業組合・王都支部へ! 私はこの組合の長を務める、スペイド・ランドと申します!」
怒涛の歓迎モードに、俺は完全に圧倒されていた。
ここで初めて、彼が『スペイド・ランド組長』であり、先ほどのジャラックが彼の兄の息子――つまり甥であり、この組合の若頭的ポジションである『ジャラック・ランド』だという紹介を受けた。
「あ、あの。誤解されているようですが、俺は貴族じゃありません。苗字がミヒト、名前がゴクウです。ただの平民ですよ」
俺が慌てて訂正すると、スペイドは握手をしたままピタリと動きを止めた。
「貴族ではない……? だが、昨日は第三騎士団長を連れ歩いていたと……」
「ジョンソンさんは、俺のお目付け役として同行してくれているだけです。俺は……その、この世界に『召喚』された人間なんです。訳あって、王宮から追い出されまして」
俺は、隠すことなく事実を伝えた。下手に嘘をついて商人相手にボロを出すより、正直に話した方が後々の面倒が少ないと思ったからだ。
「召喚……異世界からの、勇者召喚の……?」
スペイドの目が、スゥッと細められた。
その瞬間、彼の顔つきが、先ほどまでの愛想の良い笑みから一変した。まるで、鬱蒼とした森の奥で、誰も知らない極上の『獲物』を見つけた、獰猛な肉食獣のような顔。
背筋がゾクリと冷えた気がした。
§
気づけば、俺はふかふかの高級ソファーに深く座らされ、目の前には美味しそうな焼き菓子と、不思議と覚えのある香りがするお茶が並べられていた。
お茶を運んできた女性従業員は、平民のガキがなぜ組長と対等にソファーに座らされているのかと、激しく困惑した顔で部屋を出て行った。
そして、赤字の回収に向かわされたはずのジャラックは、先ほどの倍以上の量の木版を両手に抱え、この世