いつも国以下略をご愛顧頂きありがとうございます。
今回の補足は厳島の戦い新説と新キャラ紹介です。
1555年10月1日に行われた厳島の戦いは、安芸国の山里地域に集結していた軍を二分して二正面作戦を行うという無謀な戦いでした。
最終的な決定打は、同じ軍にいた厳島神領衆が毛利 元就に奪われた厳島を奪回したいと主張して、側近の三浦越中守がその意見を後押ししたからだと言われております。
まだ戦端を開いていないならまだしも、現在は山里地域での戦いの最中です。その上、安芸湾の制海権は安芸毛利家の手に落ちていますし、陶軍が抱える水軍力は大きく安芸毛利家に劣る状況でした。ですので、こういった意見が通るというのは普通では考えられません。
そのため陶 晴賢が厳島への上陸を選択したのは、本文でも書きました通り、陶 晴賢の焦りが主な要因と考えるのが妥当です。成果の上がらない山里地域の戦いに焦っていたと考えられます。厳島神領衆や三浦越中守は、焦りを見せる陶 晴賢が喜びそうな提案をしたと考えた方がしっくりきます。ゴマすりと意訳した方が良いかもしれません。イエスマンが揃ったワンマン企業の転落のさまでしょう。
また、軍を二分したのですから、陶軍の兵力はそれほど多くありません。大体3,000から4,000程度だと推測されています。どんなに多くてもこの二倍はなかったと思われます。作中では主人公陣営の介入を恐れて2万の兵で山里地域に出陣したと設定して、厳島への別動隊は、消耗を鑑みて9,000としておきました。一万の兵力は絶対にあり得ないため、この辺りがギリギリのラインかと思われます。
日本三大奇襲の一つと言われ、4,000対2万の戦いに勝利した劇的なものだったと言われる厳島の戦いの現実は、用意周到に手を打った毛利 元就が勝ち、ミスを乱発した陶 晴賢が負けるという当たり前の戦いでした。
清水 宗知 ─ 備中高松城で切腹をした清水 宗治の兄。長子でありながらも家督を継がなかったのは、一説には庶子だったとも、武者修行のために出奔したとも言われる。弟の清水 宗治にも劣らない勇猛な将であったと言われる。最終的には弟の清水 宗治と共に切腹をして果てた。
後日サポーター限定近況ノートにて、厳島の戦いに付いての江良 房栄誅殺から陶軍の厳島上陸までの流れを纏めて書く予定です。勿論、史実ベースとなります。
いつも通りマニアックな内容ですが、少しでも喜んで頂けたなら幸いです。