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年が終わるそうですね

 一年はあっという間もなかったです。なんて早さだ…俺でなきゃ見逃しちゃ(以下略)
 今年は本当にドタバタで、描きたいものも書けない一年でした…来年もそうかもしれません…(私のことを見てくれている人はそこまで多くはないのであんま関係ないかもしれませんが…)
 初めての海外暮らしはもうほんと大変で、言葉全然通じないし、物価高いし…余裕なくてカクヨムも全然顔を出せませんでした…
 ところで。
 今まで自分のスタイルは“書き殴る”をモットーにしていました。振り返ってみてもわかるように文章は一人称ばかりで人物に対して記号又は名前を与えるということも少ない、構成も考えずにやっていました。文章の中でロジックがはっきりしていなかったり、途中でジャンルが曖昧になったり。
 ゆえにジャンルをその他にぶち込むことが多かったのですが…一番新しい作品もホラーとは言えないものになっていると思います。登場人物が暴れたまま丸投げになっていますし。
 『文の章というのは、みてもらうという前提で書かれている』のに対して、私の今までの作品は『書いた後にポイ捨てするようなメモ』であったことは自己満足ではあるのですが、なかなかに面白い試みではあったのかなと思います。そういう意図でコメントも途中で閉じさせていただきました。
 読み合うということ、そして読んで欲しい!という願望を極力少なくして(ところどころ企画をするという“はみ出し”をしてしまったものの)敢えてゴミになるようなものをネットに投げつけてみて思ったのは、案の定といえど、それは多くのレスポンスの得られるものではないということです。
 同じようなことの繰り返しにはなりますが、物語はもちろん論文やプレゼン資料、申し込み用紙などの文章は常に人に読まれることが前提に作られています。
 ここで私が考えるに、書き手はいかに読み手に先行するかが重要ではないかと感じます。
 先ほど例にあげた申し込み用紙であれば、読み手がこれをヨム、そしてカク…ということで申し込みをするだろうという先行思考(ちょっとカッコつけました)のもとで成り立っているのではないでしょうか。
 いち一般ユーザの私の考えでしかないのですが、物語にこれを適応するのならば、「この展開がやってきたら読み手はこう考えるのじゃないだろうか、こう思うんじゃないだろうか」という読み手よりも先行したものによって作品は人を多く惹きつけるのだと思います。それが伏線や先の読めない展開として読み手をワクワクさせたり、世界観に没入させたり、時には騙したりすることを可能にするのでしょう。
 なので、私の書いたものはお察しです。
 …ってなんだよコレ…こんなに字数を書くつもりはなかったのですが(笑)。一年の総括のつもりが、めんどくせえ文章の塊になってしまいました。冗談半分で読んで下さった方はありがとうございます。
 それでは良いお年を。
 そして来年も宜しくお願いします。

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