『今日、また』
―《天帝戦記》より―
娘を、奪われた。
舎脂(しゃし)という名の娘だった。我が六本の腕のどれよりも大切にしていた、たったひとりの娘。それを、帝釈天が娶った。力ずくで、というわけではない。舎脂自身が、帝釈天を選んだのだと聞いている。
それでも、我は許さなかった。
許せるはずがなかった。
その日から、我は帝釈天に刃を向け続けている。
幾星霜。
数えることを、我はとうに諦めている。千年か、万年か、それ以上か。時という物差しそのものが、この場所ではもはや意味を成さぬ。須弥山という、幾千幾万の銀河がひとつの星のように瞬くこの場所で、我と帝釈天は、来る日も来る日も、剣を、槍を交え続けてきた。
我が敗れることもあった。帝釈天が退くこともあった。だが、決着はついたためしがない。
当然だ。
刃が深く食い込むたび、傷口から零れるのは血ではない。淡い光の粒のようなものが、ふわりとほどけ、また何もなかったかのように、傷を閉じていく。まるで、何かが一度崩れ、また同じ形に組み直されるように。
それが何なのか、我は知らぬ。知る必要も、これまでは感じてこなかった。ただ、そういうものとして、我と帝釈天は、この須弥山に在り続けてきた。
――ならば、この戦いに、何の意味がある。
仮に、今日、我が帝釈天を討ち取ったとして。
それで、何が終わる。
帝釈天は、また立ち上がるだろう。我もまた、そうするしかないだろう。この戦いは、終わるべき場所を、そもそも持っていないのかもしれぬ。
その疑問は、今に始まったことではなかった。
だが、今朝――否、天界に朝という区分があるかは定かではないが――目覚めた瞬間、我はその疑問に、いつになく強く囚われた。
娘を奪われた怒り。
それは、確かにある。今もある。だが、幾星霜、これほどまでに執拗に、これほどまでに際限なく、ひとつの怒りだけを燃やし続けられるものだろうか。
人ならぬ我にも、分からぬ。
この怒りは、本当に、舎脂のためだけのものか。
それとも――我自身も気づいていない、もっと別の何かが、この裡で燻り続けているのではないか。
答えは、出ない。
出ないまま、我は今日もまた、須弥山の交戦の場へ向かう。
⸻
支度の合間――否、我に支度という行為があるかも定かではないが――ふと、胸の奥に、覚えのない痺れが走った。
痛みではない。何かが、遠くから届いた感覚だった。
その痺れと共に、見知らぬ光景が浮かんだ。
異国の、小さな都。
その片隅で、ひとりの少女が、両手を合わせている。
顔はよく見えない。年の頃も定かではない。ただ、その姿勢――何かに向かって、ひたすらに祈りを捧げる、その一心な姿だけが、はっきりと我の裡に焼き付いた。
誰だ。
我は、その少女を知らぬ。会ったこともない。それなのに、なぜ、この光景が、まるで自分自身の記憶であるかのように、鮮やかに浮かぶのか。
この痺れと光景が訪れるのは、今日が初めてではなかった。
幾度か、戦いの合間に、同じ感覚と共に、同じ少女の姿が過ぎることがあった。だが、これまでは一瞬で消え、深く気に留めることはなかった。
なぜ、今日はこれほど、はっきりと届くのか。
我は、その理由を持たぬ。
持たぬまま、痺れも光景も、朝靄のように消えていった。
⸻
須弥山の交戦の場に着くと、すでに帝釈天が待っていた。
「阿修羅王よ」
声に怒気はない。むしろ静かすぎるほどだった。
「舎脂を娶りしは、この帝釈天なり。恨むならば我を恨むがよい。されど――汝はもう、幾千年もの間、そうして我を斬り続けておる。それだけの理由で、保つものか」
「――それだけよ」
言い切ろうとした言葉が、喉の途中で妙な軋みを立てた。
帝釈天は、それ以上問わなかった。ただ、槍を静かに構え直した。
「ならば、今日もまた、確かめるがよい」
その言葉が、今日はやけに重く響いた。
いつもの通り、刃を交え、いつもの通り、決着はつかず、いつもの通り、また明日、同じ場所で相まみえる。
その繰り返しの中で、我は本当に、何かを掴もうとしているのか。それとも、ただ惰性で、剣を振るい続けているだけなのか。
分からぬ。
分からぬまま、我は剣を抜いた。
「征くぞ」
六本の腕がそれぞれに神剣を、槍を、弓を、法輪を構える。三つの顔――怒りを湛えた正面、知略を宿す左面、誰も見たことのない慈悲の色を浮かべた右面――が、同時に敵を見据える。
この戦いに、意味があるのか、ないのか。
娘を奪われた怒りの奥に、何が眠っているのか。
異国の少女は、何者なのか。
その答えを、我はまだ、ひとつも持っていない。
それでも、我は今日も、帝釈天との戦いに赴く。
惰性ではない。そう自分に言い聞かせながら、我は気づく。これは、赴かされているのではない。理由も分からぬまま、それでも我は、今日という日を、また戦うことを、自ら選んでいるのだ。
なぜ選ぶのか、説明はつかぬ。
だが、答えが見えぬからといって、選ぶことをやめる理由にはならぬ。
この違和感が、いつか何かへと繋がっていくという、根拠のない予感だけを道連れに、我は今日も、剣を抜く。
⸻
《天帝戦記》。須弥山の神話、奈良の都、そして遥かな世界へ――時空を超え、数多の銀河を超越して、ひとつの魂へと繋がっていく壮大な冒険叙事詩。
幾星霜、意味の見えぬ戦いを続けてきた阿修羅王。その裡に浮かぶ、名も知らぬ少女の祈る姿。それが何を意味するのか、阿修羅王自身もまだ知らない。
こうご期待。本編、近日公開。