彼女との出会いは、もう二十年以上前になるだろうか。
私はその頃、精神科の病院で働いていた。彼女は担当していた開放病棟の患者さんだったけど、何となく他の患者さんと違っていた。私よりも一回り年上で、大病院の総婦長を勤めたことのある人物だから、「患者さん」という枠に収まってくれない。スタッフのように振る舞って、色んな患者さんに関わっていく。それが時には、過剰だったりタブーを犯すものだったりした。
「私がいないと、あなた困るでしょ」
とよく言われたものだ。その度に若かった私はムッとした。でも、彼女の事は嫌いにはなれなかった。彼女は人を惹きつける不思議な魅力があって、そのせいでみんなを巻き込んで、面倒な事件を引き起こす。躁鬱という彼女の病気と独特なカリスマ性に、みんなが振り回されていた。
彼女の入院期間は、家族と上手くいっていないせいで長引いた。彼女は家族をとても愛していたけれど、与える側と受け取る側の想いが、大きく乖離していたのだ。
しかしそんな彼女も、やがて家族の元へ帰って行った。
退院してからも時折躁状態を拗らせて、大変な事態を引き起こしていたけれど、入院はしないで済んでいた。
でも、十年くらい経って彼女はまた入院してきた。子供達が成長して自立するに従って、彼女らは家族という形を留めて置くことが出来なくなってしまった。それが原因で精神症状が悪化したのだ。
入院当初は躁状態で、相も変わらず私を困らせてくれたわけだが、二週間後には深い鬱の闇に沈んでしまった。
考えてみれば、彼女の鬱状態を見たのはその時が初めてだった。彼女の鬱はそれまで診てきたどの鬱よりも沈鬱で、重たかった。こんなに周囲を拒絶している人間に出会ったことがなかったし、それ以降も今のところ出会っていない。
彼女は全ての働きかけを拒否した。いつも布団を頭からかぶって、ベッドに横になっていた。エアコンの効かないとてつもなく暑い室内なのに、一日中頭から布団を被っている。布団から見えるのは、彼女の白い足の裏だけだった。
最初は一生懸命声を掛けていたけれど、完全なる無視を決め込む彼女に、私の心は折れてしまった。私は彼女の白い足の裏を見ると、声を掛ける勇気を持てなくなってしまった。
今日は忙しいから、この次ぎに。
さっき誰かが呼んでいたから、その用事が済んだ後。
そうやって自分に言い訳をし、彼女の傍を無言で通り過ぎるようになった。
彼女が命を絶ったのは、彼女が鬱の闇に沈んで二ヶ月くらいたった頃。流石に薬が効いてきて、少し動けるようになったのだが、鬱はその頃が一番危ないのだ。
彼女は早朝病棟を抜け出し、木の枝に紐をかけて縊首を完遂した。私は、第一発見者だった。
私は、人の自死になれているつもりだった。古い精神科の病院というのは、そういうところだから。完治しない病気を抱える人との付き合いは、自ずと長くなる。その途中で、死を選んでしまう人は、残念だけれど多いのだ。
だけど、彼女の事はどうしても、冷静に受け止めることが出来なかった。彼女の亡くなった姿より、鮮明に思い出すのは白い足の裏だ。彼女の足の裏は、私の心をいつまでも乱した。
北海道に転居する時、彼女の思い出を置いていこうと試みた。けれど、やはり何かにつけて思い出してしまう。例えば立葵を見たら、青みがかったピンク色を描こうと苦戦した姿を思い出したし、うどんを見れば、鬱のひどいときに味付けしない茹でうどんしか喉を通らなかったというエピソードを思い出した。
新しくつくった花壇に、ガーデニングが趣味だった彼女お勧めの宿根草を植えたりして、いつまでも彼女の思い出を引っ張り出しては胸を痛めていた。
そんなある日、ランサーズの仕事で「家具をテーマにした短編10編」という仕事を貰い、「あの子が空を見上げる理由」の原型となる物語を書くことになる。物語を納品した後も物語は頭の中で膨らみ続け、やがて形にする事になった。
物語を描きながら、私は「なぜこの物語を、こんなにも書きたいのだろう」と疑問を感じていた。その理由が、「赦し」を書いていた時に分かった。
私は、あの時の彼女に赦して貰いたかったのだ。私は、あなたにしなければならないことが沢山あった。それを、怠ったのだ。
私は、あなたに声を掛け続けなければならなかった。私が声を掛けたところで、結果は変わらなかっただろう。けれど、あなたに声を掛け続けなければならなかった。
ここに、あなたを気にかけている人がいると言う事を、知らせ続けなければならなかった。あなたが一人ではないことを、伝え続けなければならなかった。
そして出来ることならば、あなたの心の中にある苦しみを、少しでも分けて貰いたかった。
そういう後悔が、私の中にずっと残っていたのだ。
だから、物語の冒頭で正人の母が首をつっていたのだ。私は正人と共に、その死の理由を問いかけ続けていた。
けれど、結局のところ理由なんて分からない。正人の母には誰にも打ち明けなかった想いがあるように、私は彼女の本当の気持ちを知らないし、家族が抱えていた葛藤も知らない。
でも、問いかけることに意味はあった。
正人が物語の終盤「それは仕方のなかったこと」と受け止める努力をしようと思い至ったように、私もまた、彼女の死を「仕方のなかったこと」として受け止めている。そして、彼女の死に対して抱いた罪悪感を二度と抱えないように、自分の使命からは決して逃げないと誓っている。(いらない面倒ごとは避けるけどね)
物語を書き終えた今、私は彼女と改めて友達になったような気持ちでいる。私と彼女の関係は、私が死ぬまで続くのだ。