案内された部屋に入り、オスカーはまず窓を開いた。
雨が降ったせいか、湿気を含む風が吹き込んでくる。
だが不快じゃない。むしろシザーランド皇国に到着してからこちら乾燥した空気にうんざりしていたところだったので、楽しむように深く息を吸い込む。
直後。
「オスカー!」
思わず息を吐きだしたのは、ノックもなしに扉が開き、メアリが飛び込んできたからだ。
しかも飛び込んできただけではなく、振り返ったオスカーに抱き着きもした。
「ひどいと思わないか⁉ ロシュはお前が来ることを隠していたのだぞ⁉」
オスカーの背中のシャツをむんずとつかみ、胸に顔をおしつけたままメアリは怒鳴る。
「あー……そうなんや」
オスカーは両手を上げたまま、扉のほうに視線を向ける。
そこには苦虫を百匹どころか数千匹かみつぶした顔のロシュ中将が立っていた。
「お久しぶりでございます、オスカー殿」
それでも恭しく敬礼をしてくれるので、軍人って大変やなぁとオスカーは苦笑いしながら会釈を返す。
「皇女さんとは明日の昼食を一緒に食べる約束やってん。ロシュ中将がセッティングしてくれてんで? たぶん、サプライズ演出やったんちゃう?」
とりなすように伝えてみると、もぞりとメアリが顔を動かす。
上目遣いに自分をにらみつけ、「嘘つけ」と吐き捨てた。
(困ったな)
率直な感想はそれだ。
初めてメアリ皇女に出会ったのは、4年前。彼女が16歳のときで、自分は28歳だった。
ダブリー王国王太子エドワードの誕生日を祝う式典に招かれ、父である皇帝の先着隊としてやってきていた。
そのときは軍服姿もさまになっていて、声を聴くまでは青年だと疑わなかった。
それから4年が経ち、いまも軍服姿なのは変わらないのだが。
立派な男装の麗人に成長していた。
あの頃は“子ども”だったからこういう行為を許していたのだが、本人は自覚がなかったのだろうか。
大人びた容姿や、初めて会った時よりも伸びた身長に、オスカーは気づかないふりでにこりと微笑んだ。
「ということで。数日皇女のお屋敷にご厄介になるんでよろしく」
「もちろんだ! このメアリが最高のもてなしを約束しよう!」
ぱっと輝くような笑顔を見せると、メアリはオスカーに回していた腕を解いた。
「ロシュ。次の予定までまだ時間があるのだろう? しばらくオスカーと話をする」
「皇女。ですが」
ロシュ中将は抗弁を試みたが、メアリの表情を見てすぐにため息とともに飲み干した。
「わかりました。30分後にまたお伺いします。オスカー殿、くれぐれもよろしく」
意味ありげな視線をオスカーによこし、ロシュ中将は扉を閉めた。
「オスカー」
「ん?」
扉が閉まると同時にメアリに声をかけられ、オスカーは小首をかしげて見せた。
目の前にいるのは不機嫌極まりないという顔をしたメアリだ。腕を組み、自分をにらむように見上げている。
「ロシュに呼ばれて来たのか。ダブリー王国から」
ばれてるやん、とオスカーは内心苦笑する。
「やっぱりか」
舌打ちとともにメアリが吐き捨てるので、オスカーは頭を掻きながら苦笑いする。
「ロシュ中将かて親心や。ついでに言うならうちの王様も心配してはったで?」
「ダブリー王は、他人の心配より自分の心配をしろ! あやつこそ過労で死ぬぞ!」
それについてはまったくだと思うのでオスカーは言い返せない。
「見合いがまとまらへんのやって?」
代わりにロシュやダブリー王エドワードが心配していることを率直に尋ねてみることにする。
シザーランド皇国皇女の婿取りが難航している。
それは近隣では有名な話だった。
見合い相手を次々と断るメアリに、シザーランド皇国の重臣たちは頭を抱え、ロシュは自死を選びそうになるぐらい悩んだ。自分の育て方が悪かった、と。
折にふれて交流のあったダブリー王エドワードも気をもんでいたというか、やっぱりなとため息をついて様子を見守っていたところでもあった。
「気に入った男の人がおらへんの?」
できるだけ当たり障りなく探りを入れる。噂では蹴り倒された見合い相手もいるというから恐ろしい。
「気に入った男だと⁉」
途端に毛を逆立てた猫のようにメアリが怒鳴るから、オスカーはやっぱり両腕を上げて無抵抗をアピールする。その胸や腹に、メアリは握ったこぶしをたたきつけた。
「いるか、そんなものが! 気持ち悪い! どいつもこいつも気持ち悪い!」
「あいたたたた。気持ち悪いってなにが? 雰囲気? 人柄?」
言いながらも、ふと嫌な予感がしてメアリの顔を覗き込んだ。
「なんか変なことされたんか?」
この国唯一の皇女だ。まさかそんな女性を相手に不埒なことをしようと企む男もいまいが……。中には「手を付ければ俺のもの」と思うバカもいるかもしれない。
「変なこともするし、変なことも言う!」
メアリは大きく息を吸い込んで部屋中に響き渡るほどの声で喚いた。
オスカーは血の気が引いたが、メアリは床を踏み鳴らした。
「オスカー、お前にわかるか⁉ 手を握ってきて『女に生まれた歓びを教えてあげよう』とか、『すべて俺に任せればいいから』と耳元で囁かれる気持ちが!!!!」
「あー…………」
オスカーは何とも言えない気持ちでつぶやいた。
いる。そういう……なんかわからないけどそっち方面に自信満々な男はいる。そしてそういうやつが見合い相手で上がってきてしまったのだろう。
「どいつもこいつも気持ち悪い! みんな却下だ!」
喚き散らし、はあはあと肩で息をしているメアリをオスカーはいたたまれない気持ちで見つめる。
ロシュからはこれまでの見合い相手のことをなんとなく聞いていた。
家柄も血筋も、年齢も皇女にふさわしい青年たちだ。
ただ、首をひねったのは全員が軍人だったこと。
メアリが女でありながら軍を率い、軍隊という場に身をおいているから重臣やロシュまでが『メアリ皇女以上に男らしい男を!』となってしまっているのかもしれない。
結果、こんな悲惨な状況を招いている。
「ロシュに言われて、予を説得にきたのか? 誰でもいいからつがいになって子を産め、と」
むすっとした顔で尋ねられ、オスカーは「うーん」とうなった。
窓からは涼やかな風が吹き込む。
オスカーは近づき、窓枠に腰を乗せた。
「ロシュ中将にも『来てくれ』と言われたし、うちの王様にも『行ってこい』って言われたけど、コベリア商会からも声かかったから来てんねんな」
「コベリア? うちのコベリア商会か?」
メアリがきょとんとした顔で言う。オスカーはうなずいた。
「ガレオン船に乗って新航路を探さへんか、って」
ふわりとまた水分を含んだ風が吹き込み、無造作に束ねたオスカーの銀髪を揺らした。
コベリア商会はシザーランド皇国でも大手の商会だ。ガレオン船を数隻保有し、大陸との交易で財を成している。
だがそんな商人は最近増えてきた。そこでコベリア商会は新航路を発見し、他社から抜きん出ようとしているのだ。
「……海に、出るのか?」
メアリの声にオスカーは顔を向けた。
窓枠に腰かけた自分の目の前に彼女は立っている。
目に涙を浮かべ、それを必死でこらえ。
でも自分では『平気だ』という表情を一生懸命作ろうとして。
その顔を見て。
「断ろうと思って」
苦笑いしてつい、メアリの頭を撫でてしまう。
なにもメアリのことだけではない。エドワードのこともある。
長期航海に出てしまえば、最低3年はダブリーにもシザーランドにも帰ってこられない。しかも新航路開発だ。危険性は高い。
その数年の間に、エドワードはうっかり死にそうなほど仕事をするだろうし、メアリはいったい何人の婚約者候補を手にかけるかわからない。
(昔は、気の向くままにどこでも行ったのになあ)
なんなら自由気まますぎて、教会から火あぶりの刑を宣告されたこともあるというのに。
そんな自分が『気になるふたり』のために自分の自由を制限している。
(これもそれも全部アイシャのせいやわ)
王妃パドマの中にたった数年だけいたアイシャ・レッドという女性。
彼女がダブリー王国の歴史を変え、そして。
オスカーの生き方さえも変えてしまった。
ぽすぽすと頭を撫でていると、安心したのかメアリは子どものように丸めたこぶしで涙をぬぐい、すぐに笑顔になった。
「ま。お前のようなか弱い男は海になど出ぬほうがよい。陸地にいろ、陸地に」
メアリが強気に言うのを「そうやな」と笑ってうなずく。
「うちの王様も同じようなこと言うてたしな」
この子にはこんな笑顔のほうが似合う。
できればずっとそんな顔でいてほしいのだが、「現皇帝のたったひとりの子」という立場がそうさせてくれないのだろう。
現皇帝が生きているうちに配偶者をとらせ、子を産ませる。そしてその子を次の皇帝にさせたいのだろう。
気持ち悪い。そう怒鳴りたくなる気持ちもわかる。
「……そういえば、前から聞きたかったのだが」
ふとメアリが言い出した。
「なに?」
そう言って首をかしげて見せると、メアリは神妙な顔を近づけてきた。
「お前、恋人はいるのか?」
小声で尋ねてくるから、なんやそれ、と小さく吹き出した。
「いまはおらんよ」
「では過去にはいたのか」
「まあ……大学時代やから。うわ、どんだけおらへんの」
「その相手は男か」
「……………ん?」
「いや、隠さぬでもよい。我が国はそういったことに寛容だ」
「それは……ええことやけど。ぼくは普通に女性が好き……やけど」
「そうなのか!」
びっくりしたように目を真ん丸にされるからこっちが驚く。
「どのへん見てそう感じたん」
「女っけはなく、エドワード王とべったりだから」
断言され、「あー」と重い息をつく。
ダブリー王国内でも時折言われる噂だ。パドマとエドワードは対外的には非常に仲良くふるまっているが、実際は違う。パドマのほうはどう思っているかどうかわからないが、エドワードの心の中にはずっとアイシャ・レッドがいるのだから。
国王と王妃がたまにみせるよそよそしさや、いつまでたっても子ができぬことにいらぬ噂をたてる輩もいる。
その噂のなかでも一番とんでもない話が、「エドワード王は男色家で、オスカーと恋仲」というものだ。これがいつかエドワードの耳に入ったらと思うとオスカーはひやひやしている。
「べったりというか……。心配やん、あの王様。放っとったら普通に死ぬで」
夜も昼もなく働き、人臣のために心を配り、法整備を推し進め……。
そんなエドワードの姿を国民はほめたたえて尊敬しているが、オスカーからすれば「早く死にたい」と思っているようにしか見えない。
あれは自覚のない自死だ。
「そのへんは大丈夫だろう。なにしろパドマ王妃がいらっしゃるのだからな」
メアリは言う。そやなぁとオスカーはあいまいに濁した。
「そうか。ならば予はオスカーとつがいになることにしよう」
「…………はあ?」
オスカーはあっけにとられた。
こんなにあっけにとられたのは、何年、いや、何十年ぶりだろう。
ある意味新鮮で斬新で奇抜なことを聞いた。
「え? な? なにいうてんの?」
だから声も顔を半笑になる。それなのにメアリは余裕で自信ありげにうなずいてみせた。
「うむ、それがよい。お前なら気持ち悪くないからな」
「そういうことじゃないやろう⁉ いや、ほかにも男はおるって!」
思わず大声を上げたが、メアリは鼻で笑う。
「そりゃあ男はあまたおろうが、お前みたいなのがいるか? もうひとり?」
「う……」
自分でも他人とは違うと自覚しているだけに、自分のような男がこの世界にもうひとりいるかと言われたらちょっと返事が濁る。
「パドマ王妃に出会った頃からいろいろと考えておったのだ。予は皇帝の嫡子としてふさわしくふるまってきたが、皇帝にはなれぬ、と」
オスカーは思わずまじまじとメアリを見た。
力んだところも強がりも。そんなものは一切ない。
彼女は自然体で笑っていた。
「パドマ王妃に出会うまでは必死だった。男になろう、と。父のように皇帝になるのだ、と。だが無理だ。予はどこまでいっても女であるし、女である予を皇帝と認めぬものは多い。ならば誰もが認める方法で父上の跡継ぎを探そう、と」
メアリは目を細めて微笑む。
「皇帝にならずとも予は予だ。そうだろう?」
「そうや。皇女さんは皇女さんや」
そうだとも、とメアリは胸を張った。
「父上もまだお若い。予の弟をがんがん作ってくださってもいいのだが、どうもその気にならぬようでな」
「あ……そう」
「代わりに予にがんがん孫を作ってもらうつもりのようだが、予は予でみなが選ぶ男が気持ち悪い」
「あ……そう」
「皇家の血を引く者は他にもいる。嫡子が予なだけだ。だからその中でみなで話し合い、選べばいい。そうだな。5年か……長くて10年かけて後継者を探そうと思う」
メアリは晴れやかに笑った。
「それまで悪いが待ってくれ」
「いや、待ってくれ、て」
オスカーはうろたえた。
「よう考えてみぃな。10年後って……皇女さんは30歳やけど、ぼくなんて40過ぎやで⁉」
「待たせて申し訳ないな……」
「そうやなくてな⁉ 国籍も身分も違うねんで⁉」
「おお、そうか。ではすまぬがオスカーはシザーランド皇国籍をとってくれ。あと身分は心配いらぬ。適当な家系をでっちあげればよい。よくあることだ」
「あかん……」
オスカーは絶望した。
そして思った。
海に出よう。
そうだ、コベリア商会のガレオン船に乗ろう、と。
「言っておくが海に逃げようとしたら、コベリア商会ごと潰すからな」
冷ややかに告げられ、オスカーはコベリア商会の未来のためにその案を消した。
「これでなにもかも万事うまくいく」
メアリは華やかに笑うと、窓枠に腰かけているオスカーに抱き着いた。
危うくそのまま窓の外にふたりして落ちるところを寸前で受け止め、オスカーは苦笑いをもらした。
(まあ……。10年経てば思いも変わるかもしれんしなぁ)
ロシュとシザーランド皇国重臣たちの婿選びに一縷の望みをかけ、オスカーは肩をすくめた。
了