これはまだ、サリュがシトエンと出会う五年前のお話。
◇◇◇◇
ラウル・ミラーは、闇雲に歩き回っていた。
口から吐き出す呼気は、空を覆う曇天と同じ色をして自分にまとわりつき、荒い息のまま周囲を見回すが、世界は色を失ったように真っ白だ。
木々の葉や岩肌には深い雪が降り積もり、さっきから同じところをずっと移動しているような気がしてくる。
ラウルは皮手袋を嵌めた手で、顎からしたたり落ちる汗を拭った。
本隊の位置が全く分からない。
ぬかった、と舌打ちして一歩踏み出す。
途端に右足首に激痛が走り、腰から地面に頽れた。
呻きながら膝を抱え、長靴を掴む。痛みは雷のような速さで脳天を突き、「ああっ、くそっ」とラウルは悪態をつきながらも、一気に右足の長靴を脱いだ。
雪の上に座り込んでいるというのに、冷たさは全く感じない。
むしろ、剥き出しの足はかなり熱を持っていた。
甲からくるぶしにかけて、ぱんぱんに膨れ上がっている。
そっと指で腫れた部分を押すと、やはり激しい痛みに襲われた。
(折れてはいないとおもうけど……)
眉根を寄せる。
(失態だ)
ラウルは深く息を吐く。
長靴を脱ぐことで圧迫から解放されたため、右足は絶えず痛み始めた。
(踏み外すなんて……)
夏山とは違い、この時期の山に藪はない。
なので、山道を踏み外すことはないと高を括っていた。
それに、今日は巡回だ。
決められたルートを見回り、違法な抜け道は作られていないか、山賊が潜んでいないかを確認し、また、武装した騎士団で国境を見回ることによって、隣国の不埒者たちを威嚇することが目的だった。
だから気が緩んでいた、と言われればそれまでだ。
というか、それ以上に気がかりなことがあったのだから、どうしようもない。
(団長に雪合戦なんかさせるんじゃなかった)
顔を顰め、拍子にまた流れ落ちる汗を、首を振って飛ばす。
定例の国境警備を開始した初日。
急に降り出した雪に、団長であるサリュ・エル・ティドロスが大はしゃぎし、野営の手を止めて『雪合戦をするぞ!』と騎士たちに宣言したのが発端だ。
なに莫迦なことを言ってるんですか、と、ラウルは注意したのだが、5つ年下で、まだ二十歳になったばかりの青年は頑として聞き入れなかった。
『ラウル! 隊をふたつに分けろ。おれのチームと、お前のチームで戦うぞ! 負けた方は罰ゲームとして、王都に戻り、陛下に拝謁するまで髭を剃るなよ!』
嬉々としてそう言ったサリュのチームが負けた。
サリュのチームに所属していた騎士たちは愕然としていたが、サリュ自身は豪快に笑って『髭を剃らなくていいんだから、らくだろ』と言い放つ。
そして、現在。
サリュの容貌がどうしようもなくなっている。
最早、外見だけで判断をするなら、盗賊を討つ方ではなく、盗賊だ。
というか、人っぽくすら最近なくなっている。なんか、雪山に潜む未確認生物のようですらあった。
比較的やわらかく表現してみても、「熊」。そう、熊だ。
ラウルはさらに眉間のしわを深くする。
罰ゲームは、陛下に拝謁するまで、この髭モジャでいる、ということになっている。
雪山なら、まあ、こんな恰好でもいいとして、果たして彼を王都や宮廷に連れて行けるのだろうか。
(絶対、王太子に、ぼくが殺される……)
サリュはどちらかというと、毛深い。体格も非常に男っぽい。
そんなやつが、髭を伸ばしたい放題で王都に入ると、いったいどうなることやら。きっと彼を見た貴婦人たちは悲鳴を上げるに違いない。そして、そんな危険分子を持ち込んだラウルは、王太子にこっぴどく叱られるだろう。
だから、「その罰ゲームは山を下りた段階で終わりにしましょう」と提案したのに、サリュは受け入れない。潔く、おれは罰ゲームを受け入れる、とか言い続けている。心底やめて欲しい。ラウルのためにも。
もう、明日あたり、寝込んだところを見計らい、髭を剃るしかない。
いや、今晩でもいい。とにかく、隙があれば、団長の髭を剃る。
(そんなことばっかり、考えていたからなぁ)
ラウルは痛む足を引き寄せる。
怪我の原因が、サリュの髭。ああ、いやだいやだ。そんな自分にがっかりだ。
だが、嘆いてばかりはいられない。今は、とにかく本隊に戻らねば。
(滑落して……。どれぐらい時間が経ってたんだろう)
ラウルは改めて周囲を見回すが、まったく見当がつかない。
灰色にうねる雪雲からは絶えず白い綿雪が降り注ぎ、外套に薄く積もり始めている。
あのとき、自分は行軍の先頭にいた。
雪が積もっていたとはいえ、道はわかる。
新雪を踏み固めるように歩いていたとき、ふと、何か物音が聞こえたような気がしたのだ。
ラウルは立ち止まる。
自然と、列は動きを止めた。
『ラウル?』
サリュが名前を呼ぶ。
『しっ。……今、あちらからなにか……』
立てた人差し指を唇に押し当て、そっと西側に足を移動させたのだが。
地面を踏むはずの足は、そのまま空を滑った。
背後からサリュや騎士団たちの声が追いかけて来るが、それよりももっと早く、ラウルの身体は山肌を滑り落ちて行ったのだ。
(……じっとしていればよかったか……)
今になって後悔し、上半身を揺すって雪を払った。
気がつくと同時に、動転していたこともあり、とにかく移動をしなければ、と動き回りすぎた。
ついでに長靴を改めて右足に入れようとするのだが、腫れすぎて入らない。凍傷だけは勘弁だ、と、何か足を覆うものはないか、軍服のポケットを探るラウルの耳は、自分に近づく複数の足音をとらえた。
一瞬、騎士団の仲間が自分を探しに来てくれたのかと思ったが。
「おう。なんだ、国境警備の騎士さまじゃねえか」
だが、真白な背景から、ぬっと現れたのは、明らかに盗賊風情の男たち三人だった。
「ひょっとして、あの騎士団たち、こいつを探してたんじゃねえか?」
話している言葉はカラバン共通語だった。
ラウルは左足に力を籠め、膝立ちになる。右足には力が入らず、だんだんとしびれ始めていた。これでは逃げるのは無理だ。
「間抜けなあんたのお陰で、おれたちは騎士団さまから発見を免れたんだが……」
男たちは、ラウルの頭からつま先まで眺める。どうやら品定めされているらしい。
「売れば高値になりそうな服や小物だな。脱げ」
一番年かさの男に命じられたが、ラウルは短く応じる。
「断る」
「だったら首をへし折って脱がすしかないが、どうだ?」
淡々と尋ねられたが、ラウルは無言で佩刀の柄を握った。
どちらにしろ、こんな雪山で身ぐるみ剥がれたら、凍死するしかない。
だったら、一か八か剣を抜いて戦うしかないだろう。
(あー……、もう、ほんと、最悪)
ラウルは片膝立ちのまま、柄を握り込み、深く息を吐いた。
この姿勢でしか迎え撃てないのだから、初太刀は、居合切りしかない。連続して攻撃してくれれば、勢いを活かして袈裟懸けができるが、そんなにうまくいくとは思えない。
(短い人生だったなあ)
享年25歳。せめて結婚したかった。
こんなことなら、団長の結婚を待って、なんて悠長なことを言わずに、親の言うままどこかの貴族の令嬢を嫁にもらえばよかった。あんな熊王子なんて、絶対結婚できるはずがなかったのに。
ふう、ともう一度息を吐く。
すい、と目を細めた。
肩の力を抜き、ゆっくりと長く息を吸い込む。
そして、止めた。
腹の中心で、吸い込んだ空気が渦を巻く。
ゆるく、唇を開く。
するり、と呼気を吐き出すころには。
腹の中で、渦巻く空気が熱を持つ。
「さっさと殺そう」
男のひとりが抜刀し、勢いよく突っ込んできた。
ラウルは半眼のまま、男を迎え撃つためにわずかに上半身を傾ける。
機をはかる。
柄を握る手に、指に、めぐる血管に。
熱がほとばしる。
ふ、と。
ラウルは細く短い呼気を漏らした。
いまだ。
鞘から剣を走り出させようとしたとき。
「しゃがめ!」
背後から怒鳴られ、ラウルは咄嗟に地面に横倒しになる。ばさり、と降り積もる雪が舞った。
その視界を。
真っ黒で巨大な何かが飛び越えていく。
それは、どん、と地を揺らして着地すると、大きく右腕を振るった。
新雪に鮮血が飛び散り、ラウルを襲おうとした男は目玉をこぼれんばかりに見開く。
どん、と。
その黒い巨躯は男に体当たりし、かつ、ぶん投げた。
男たちは、傷ついた仲間を抱え、震える。
「熊だ!」
誰かが叫んだ。
「冬眠してねぇ、狂い熊だ!」
のそり、と。
巨躯が影を揺らすように動いた。
いや。
外套だ。
雪を散らして吹き込む風に、外套が大きく広がる。
途端に、男たちは悲鳴を上げた。
彼らには、両腕を広げた大熊にでも見えたのだろう。
恥も外聞もなくラウルたちに背を向けて走って逃げ去る。
「だーれが、熊だ」
呆れたような声のあとで、それは振り返った。
「大丈夫か、ラウル」
そう言って笑いかけてくるのは。
髭モジャの、第三王子サリュだ。
「やっぱり、誰が見ても熊なんですよ、その外見」
ラウルはがっかりする。
髭や髪型を整え、それなりの服を着せれば、野性味あふれる男性なのに。
「熊が剣を使うかよ」
サリュは剣を振って血糊を飛ばす。
「斬りつけた、というより、爪で切り裂いて、張り倒したように、ぼくには見えましたよ」
そしてそれは、あの盗賊たちもだろう、とラウルは思った。
「足、怪我したのか?」
剣を鞘に戻し、サリュが首をかしげる。
「折れてはいないと思うですが」
「背負ってやるよ」
「熊の背に乗るのかー……」
「お前な」
「あー。近くで見たら、ますます熊だー……」
小突くサリュの手を払っていたら、背後から「団長―」「副団長いましたかー」と、騎士団団員たちの声が聞こえてきた。
「おー。ここだあ」
のっそりとサリュが前足を……、いや、手を振った。
その後、罰ゲームを忠実に実行したサリュは、王宮内で阿鼻叫喚の悲鳴を生み出し、密かに恋心を抱いていた淑女にも嫌われたのだが。
サリュの武勇は国内外に鳴り響くことになる。
こうして、『ティドロスの冬熊』は誕生したのである。
短篇 了