ノリ坊は手を引かれて歩道橋の上を歩いていた。
手を引いているのはノリ坊の祖母である。祖母は鶴子と言いノリ坊は次男の次男、つまり孫にあたる。
ノリ坊と鶴子は今から彼の母親の病状を見舞うため道向こう側の病院に行くところなのである。
ノリ坊は今年5歳になったばかりの子供、久しぶりに母ちゃんに会えることが嬉しくてたまらない。
歩道橋の階段を下り終えると目の前が病院、かなり大きな病院だ。
ノリ坊は、鶴子の手をしっかりと握りながら、歩道橋を渡っていた。彼の心は期待でいっぱいだった。
久しぶりに母親に会えるという喜びが、彼の小さな胸を膨らませていた。彼らが歩道橋の階段を下りると、そこには大きな病院が立ちはだかっていた。
その壁は、多くの人々の希望と苦悩を内包しているかのように、堅固でありながらも温かみを感じさせた。ノリ坊は、この病院が母親を癒し、再び家族の元へと帰してくれることを信じていた。
彼の小さな手は、祖母の手を一層強く握りしめた。
彼らは、母親のいる病室へと足を進めた。
その一歩には、まだ稚拙な期待が込められていた。
しかし、その小さな期待は子供にはどうすることも出来ない不公平な絶望へとつながっていた。
鶴子は、ノリ坊の手を引っ張りながら「もっとキビキビ歩きなさい」。その言葉は要らぬやっつけ仕事をこなしているようだ。
彼らは、病院の廊下を進みながら、母親に会える喜びをかみしめていた。
鶴子と会うのも久しかったが、ノリ坊はこの実祖母のことが好きではない。
彼はまだ5歳の子供だったが、その短い人生の中で培われた直感が、この鶴子を好ましく思っていなかった。
彼は、祖母に対して猜疑心を抱いていたのだ。
なぜならば、ノリ坊には両親がいなかった。なぜいないのか解らない。物心がついた時にはいなかったのだ。肉親と呼べる存在は年子の兄が一人、彼の兄は名を佳彦といい祖父母に引き取られそこから幼稚園に通っていた。兄弟は別々に暮らしているのだ。
ノリ坊の足取りは重かったが、それは母親の病室に近づくにつれ徐々に軽くなっていく彼の歩みとともに、期待と希望は大きく膨らみ始めたのだ。
彼は母親の元へとたどり着いた。
母親はベッドで起き上がっていた。彼女は60歳を過ぎた老婆だった。実祖母の鶴子よりも年長なのである。ノリ坊は彼女の髪が所々無いことに戸惑う。彼の母親が「鶴子?その子は誰の子?なぜ貴女が連れているの?」母親は彼のことを忘れていた。それより「ねぇ鶴子、私の髪の毛が抜けていくのよ、どうしてかしら?」と、自分の髪の毛が抜けていくことを心配していた。
ノリ坊は、祖母の手を振りほどき「アキかぁちゃん!」と叫んだ。
しかし母親は彼のことを憶えていないようだ、「僕は誰?」と彼に聞く始末だ。最後に会ってから未だひと月くらいなのに。彼が「かぁちゃん」と呼ぶアキは末期癌だった。ノリ坊は子供ながらに絶望していた。それはアキが病気だからではなく、ノリ坊の存在を忘れてしまっていたから。子供には酷なことである。
病室での鶴子とアキの会話は鶴子のカツラを貸して欲しいだのアキの家の柱時計のゼンマイを巻いて時間差を直して欲しいといった内容だった。祖母の鶴子は大方話したいことが済んだのかもう帰りの挨拶を済ませノリ坊を促すように病室の外に出た。
「アキかちゃん、お家に帰れないの?」と鶴子に聞くと鶴子はどこか面倒くさいように黙って頷くだけであった。
ノリ坊は子供ながらに理解していた。もしアキが死んでしまったら、それから先自分はどこに行くのだろうと考えていた。
彼は病院から家に帰る途中も終始無言であった。彼の小さな手は、まだ母親の感触が残っていた。その悲しみと喪失感が彼の子供心を支配していたのだ。
彼の心の傷口は癒えることはなかった。
彼は、アキが病気であることと自分のことを忘れている喪失感にさいなまれながら祖父と佳彦のいる家にへと帰った。
時折ノリ坊は悲しみよりも自身の心配に暮れることがあった。物心がつく前から鶴子は金銭を払い彼を他所の家に預けていた。彼は、アキが実の母親でないことは解っていた。
アキと鶴子が従姉妹であることも知っていた。しかしノリ坊にとっては心を支えている大事な存在だった。
そのアキが退院できなかったことは、彼にとって大きな衝撃であり彼の心は、悲しみにさいなまれていた。彼は、アキとの別れを受け入れられずに泣いた。
彼は、アキの病気を受け入れることができない。その先の彼の行く先が想像でないのだ。ノリ坊は祖父母の家に引き取られた。祖母の鶴子は父方である。しかしノリ坊のことを自分の行商の邪魔になる手間のかかる面倒な子供としか思っていなかった。
ノリ坊は、鶴子の家で過ごすうちに少しずつ元気を取り戻していった。しかし、何時かはアキの家でアキの実子の兄弟達とまた暮らせると思いそれは願いと言うよりも祈りに近い子供の気持ちだった。ノリ坊は祖父母の家の居間で、彼の実の兄、佳彦と積み木ブロックで一日中遊んでいる。実の兄弟だがふたりが会ったときは互いに別環境の育ち同然で、名を呼ぶときも「ヨシヒコ」である。いきなり今日の今日から「お兄さん」とは呼べなかった。祖父母の家では佳彦も一緒に暮らしていた。対してノリ坊の生活は先月まではあちらの家、来週からはそこの家と転々暮らしみたいな感じだろうか?そんな孫を時折見て祖母の鶴子が「まったく腹の足しにもならない物を送ってくるなんて、アンタの父親は・・・」と愚痴をこぼしていた。
ノリ坊は父親の顔を未だちゃんと見たことがなかった。
ノリ坊は、その愚痴を聞き流しながらブロックで造る家に集中していた。彼は、今すぐ飛び出してアキが入院している病院へ行きたいとさえ思っていたのだ。しかしそれは絶対に叶うものではないことも子供ながらに判っていた。
鶴子はノリ坊の外出を許さなかった。それは彼女が彼に対して愛情がないのではなく、近所の子供達にイジメ泣かされて余計な手間がかかるからだ。ノリ坊は、アキが退院するまで鶴子の元で我慢しようと考えていた。そして大人になり、またアキとアキの実子である宗司兄さん、嘉代姉さん家族四人で暮らせる日々を毎日夢の中でも想像していた。
幼いノリ坊にとっての母親はアキである。少なくとも彼にはそれだけでも十分なのだ。アキの年齢が初老であれば息子の宗司と長女の嘉代はどちらも成人していた。宗司は空手の有段者、いつも肌を露出していて夕方になると庭でヌンチャクを振り回し、縦に積んだ瓦を手刀で割っていた。彼の部屋は母屋から離れたプレハブ小屋で遊びに行くと部屋中にジミー・ヘンドリックのポスターと音楽がかかっていてノリ坊には刺激的だった。愛車のフォルクスワーゲンはたまに友人達とドライブに使う程度、嘉代姐さんは母屋に自分の部屋はあるが殆ど家におらず、しょっちゅう出かけては帰りも遅かった。
ノリ坊は、この祖父母の家で祖父母と兄との四人だけの生活を強いられれがまだ稚拙な彼の願いであった。彼は子供なのだ。
ある夜、ヨシヒコの悲鳴で起きた。それ程の大きな叫び声がノリ坊の耳をつんざいた。
声は台所から聞こえたのでノリ坊は兄の元に駆け寄ったが、そこで見た光景は兄ヨシヒコが流し台によじ登り泣きながら盥の水を飲んでいた。
「ヨシヒコ、どうしたの?」
するとヨシヒコはノリ坊の後ろを指さした。そこには寝巻姿の鶴子が立っている。鶴子は酒で漬けた唐辛子の瓶を抱えてその顔は笑っていた。
ヨシヒコには寝るときに指を咥える癖があった。彼もまだ母親が恋しい子供なのだ。鶴子は兄のその癖が気に食わないのか、度々兄の指に唐辛子を塗るのが何時しか心地よくなったのだろう。
しかしノリ坊にはあり得ない光景が焼き付いてしまい、その時から(もっと利口にならなきゃいけない、早く大きくならないと祖母にヨシヒコよりもっと酷いことをされる)ノリ坊はこの時期から祖母の拵える食事を食べなくなった。
祖父はそんなノリ坊に食事を摂らせるためか夕飯時には末席のノリ坊を呼び、自分の膝の上に乗せて食事を促した。ノリ坊は周りの子供達と比べると痩せてはいたが何とか栄養失調だけは免れて育っていた。
そして半年後、ノリ坊は幼稚園に通う歳になった。