長野県南信州、山深い谷間に佇む老舗旅館「澄ノ宿《すみのやど》」。
雨の夜、停電が旅館を闇に沈めた。そして、内側から鍵のかかった一室で、主人が死んでいた。そこに留まった時刻の痕跡、床と壁に散った痕跡、止まった腕時計、そして関係者それぞれの言葉。論理は手がかりを、感情は言葉を、別々の速度で運ぶ。
止まった腕時計が指す、二十時三分。
事業継続保険の調査のため、滞在していた保険調査員・水無瀬 真|《みなせ まこと》は、手帳を開く。彼が書くのは、確定できる事実だけ。推測は書かない。感情も書かない。証言と痕跡から、あの夜の七分間を一秒ずつ再構成していく。
密室は、いつ完成したのか。
鍵は、誰がかけたのか。
水無瀬は部外者でありながら現場に残り、刑事・桐原の捜査と並走する。聴取と証言の齟齬《そご》、鑑定の待ち時間、増えていく手帳の行。同じ廊下を、同じ部屋を、もう一度歩くたびに、謎は足元で形を変えていく。雨は弱まらず、山の夜だけが厚くなる。「答えはまだ」と書きながら、二十時三分という数字だけが、いつの間にか事件の中心に立つ。
旅館を守ろうとする女将、言葉にできない弟、静かに待つ刑事。それぞれが抱える沈黙の奥に、水無瀬の論理が触れたとき、密室の意味そのものが反転する。
——本格密室ミステリー。全二十四話、約八万字。