怪異の退治話はホラーと相性がいいということで、こちらも短いホラー小説にしてみました。
悪役令嬢的な人物と絡めると書いていて楽しかったです。
_______
夜明け前、雨でぬかるんだ山道を英恵は一心不乱に登っていた。綺麗な着物の裾に泥が跳ね、足袋がぐっしょりと泥水を吸い汚れても一切気にする事なく突き進む。
生まれてこの方従者が常に身の回りを世話してくれていた英恵にとって、こんな悪路を自らの脚で登ることなど考えられない事だった。しかし今、英恵の中で渦巻く感情の波が自らのプライドを押し流してしまうほど恵まれた家柄と言うのは些細なものになっていた。
彼女を突き動かす原動力、それは怒りだった。
「婚約を破棄するですって?」
昨日の朝、従者が額に汗を浮かべながら自室に駆け込んで来た。その手に持った封筒は雨で少し濡れている。中身を震える声で読み上げた従者に対して、英恵は綺麗に紅が引かれた形の良い唇をわなわなと震わせた。
英恵の婚約者、与一からの手紙には婚約を解消するという極めて簡潔な内容の文章のみが書かれていた。釈明も謝罪も一切書かれていない。怒りで顔から血の気が失せるのを感じた。
「お父様は何と言っているの」
「それが、どうやら、旦那様はこの件に関して二つ返事で了承した、と」
しどろもどろになりながら話し続ける従者の声はもう英恵の耳には入らなかった。なぜか視界がチカチカとしてくる。
あの女だ。
あいつが与一をたぶらかしたのだ。
「お妙が仕組んだのよ。あいつが、たぶらかしたんだ」
与一には幼馴染だという一人の女がいた。家柄を辿れば名家に行き着くらしいが、今はただの庶民の娘だった。与一と英恵の結婚は二人が生まれた時から両家で取り決めされた謂わば許嫁であった。けれど、英恵が美しく成長するにつれ、なぜか与一は自分に対して素っ気ない態度を取るようになっていった。最初は、年頃の娘に対して抱く気恥ずかしさからくるものだと思っていた。けれど違った。与一は何かと庶民の娘であるお妙に目をかけ始めた。お妙は英恵の父が運営する工場で作業婦として働いているから、与一が英恵の婚約者であると言うことも当然知っている。
一度、お妙が与一と話している場を見たことがある。お妙は恥じらいもなく歯を見せて笑っていた。その隣でお妙を見つめる与一の顔は、英恵には見せた事もないような自然な笑顔を携えていた。
息を乱し、着崩れた着物の裾を少し直して、目的の場所へ辿り着いた英恵は目の前の鳥居を見上げる。よく見知った稲荷神社の鳥居とは異なり、上部に山型の意匠が施された山王鳥居は雨に濡れて沈んだ朱色をしていた。英恵は鳥居をくぐり、まっすぐ社殿へ向かうと泥に塗れた草履を脱ぐ事なくそのまま拝殿へと入った。手入れが行き届いている社の板張り床に汚れた足跡がベチャベチャと残る。神饌を捧げるための三方が並ぶ神棚の奥、両脇に榊が飾られている神鏡を退けると奥にもう一つ戸棚があった。引き戸には錠がかかっていたので、英恵は一度外に出て近くの林から適当な石を拾ってから戻ってきた。何度も何度もガンガンと石を打ち付けて何とか錠前を壊す。英恵の綺麗な指先は爪が割れ血が滲んでいたが、それを気に止める事なく戸棚を開ける。
中には年季の入った桐箱が置かれていた。それを引っ張り出して紐を解き、蓋をあける。布に巻かれた細長いものが入っていたので、広げて中身を確認する。黒い枯れ枝のようなものだった。けれど、先端は明らかに指が5本ある手の形をしている。山王神社の祭神、鳴猿彦大神の御神体だ。
英恵は後ろを振り向いて誰もいない事を確かめると、急いで桐箱を戸棚に戻し、鳴猿彦の腕を袂に押し込んで神社を後にした。帰りもそれはひどい道程ではあったが、とにかく急ぐしかなかった。あの女が工場にくる前に、作業婦更衣室に入らなければ。何とか山を降り家の隣に併設された工場に忍び込む。誰もいない工場を抜けて更衣室を目指す。機械油の匂いが鼻につく。指先に滲んだ血が白い手を汚す。足も降りる時に挫いてしまってジンジン鈍い痛みを放っている。全部あの女のせいだ。あいつが悪い。だから報いを受けるべきだ。
更衣室に辿り着いた英恵は、ロッカーに書かれた名札をひとつずつ確認する。お妙の名札が貼られたロッカーを見つけ扉を開けた。綺麗に整頓された中に持ってきた御神体を無造作に入れる。バタンと扉を閉めてようやく英恵は一息ついた。
興奮しているのか耳鳴りがする。一呼吸つくと、挫いた足の痛みがどんどん明確になってくるのが分かった。もうすぐ点検担当の従業員が出勤してくる時間だ。抜け出した事を従者が気づく前に自分も戻らなければ。
更衣室から出ようとした時、背後でほうほう、と梟が鳴く声が聞こえた。英恵は振り向かずその場を後にした。
その日の昼間、メイドが工場で人が倒れたらしい、と話しているのを英恵は聞いた。
若い作業婦が出勤して更衣室に入った後、その場で意識を失い運ばれていったと。それを聞いた英恵は従者に手当てしてもらった指先をギュッと握りしめながら口元に笑みを浮かべた。そのまま、目覚めずに死ねばいい。心からそう願った。
その夜、英恵は興奮のせいか胸がざわつきなかなか寝付けなかった。更衣室を出た後から頭痛もひどい。夕飯も取らず部屋に篭ってずっと布団をかぶっていた。時計を見ると丁度丑三つ時であった。
その時、窓の外から梟の鳴き声が聞こえた。英恵は窓の外に背を向けて横になっていたので、そっと体制を変えて目線を窓の方に向ける。暗闇の中でこちらを見つめる黄色い点が二つ、ゆらゆらと揺れていた。英恵はすぐに目を逸らして布団を頭から被る。自分の熱い吐息が布団を湿らせる。自分ではなくお妙に取り憑け。あいつをお前の慰み者にしろ。心の中で何度もそう繰り返しているうちに、英恵は眠ってしまった。
夢の中で英恵は山王神社の境内に一人佇んでいた。
今すぐこの場から離れたいのに、足が動かない。
それどころか目線も動かせない。
だんだん呼吸が荒くなる。
山王鳥居の向こうは霧に包まれ、何も見えない。そこから視線を動かせず前を見据えるしかなかった。
すると霧の向こうで何かが動く気配がした。だんだん近づいてくるそれは、鳥居の前で一度歩みを止めた。
一拍の後、鳥居をくぐって入ってきたのは白い狼だった。
その姿を見た瞬間、英恵の中に凄まじい怒りの感情と恐怖が湧き上がった。何故こんなにも自分がこの狼に対して怒りと恐れを抱くのか理解できず混乱した英恵に、さらに頭痛が襲いかかる。
白い狼は唸り声を上げるとこちらに飛びかかってきた。
その時ようやく腕が動き、噛みつこうとする狼の前に防御する形で腕を前に出した。
英恵は目を見開いた。
噛みつかれる恐怖にではない。
自分の腕が、毛むくじゃらの猿の腕になっていたからだ。
ありえない。なぜ。これは、わたくしの腕じゃない。
鋭い牙が毛深い腕に突き刺さる。
英恵は悲鳴をあげたが、自分の声ではなく醜い獣の声だった。
絶望と激痛と恐怖と怒りが、英恵だった大猿の怪物を支配する。
口から泡を飛び散らし絶叫する大猿の喉笛を、狼は鋭い爪で引き裂いた。
溢れ出る鮮血をかき集めようとする腕が中を舞う。噛みちぎられた腕が境内の石畳の上に転がった。
急速に冷たくなる体はどしんと音を立ててその場に倒れた。
英恵は目を動かして佇む狼の方を見る。
その目は何の感情もない、静かで冷たい光を湛えていた。
翌朝、従者がいつも通り英恵を起こすために部屋を訪れると、ベッドの上に仰向けで倒れている英恵を見つけた。
自分で掻きむしったのか喉は血まみれで、口から泡を吹いていた。
そして右腕には獣に噛まれたような跡が深々と残っていた。