かつて、力ある者が弱き者を支配し、知識も技術も一部の人間に独占されていた世界に、一つの理想が生まれた。
それが、ノアリアである。
ノアリアは、戦争によって人々を従わせるのではなく、教育、農業、医療、建築、研究、芸術を通じて、人間が穏やかに生き続けられる社会を築こうとした国だった。かつて囚われの身にあった者たちを理想の礎とし、貧しい土地には遠方から豊かな土壌を運び込み、読み書きのできない人々には物語を通じて知識を伝えた。
人々が毎週穀物菓子を供え、火を絶やさないという素朴な教えも、単なる信仰ではなかった。食料を蓄え、生産力を維持し、次の世代へ文明を受け渡すための知恵が、その根底にはあった。
しかし、理想だけでは国を守れない。武力が必要だった。
ノアリアの周辺には、希少な鉱物資源と強大な軍事力を持つ大国タリスが存在した。タリスは武力によって秩序を維持し、属州から税を集め、交易路と資源を掌握する国家である。
ノアリアが知識と技術によって文明を育てるなら、タリスは武力によってその文明を守る。両国は異なる原理を持ちながら、互いに欠けたものを補い合っていた。
ノアリアは、各地へ元奴隷の派遣民を送り出す。彼らは農地を改良し、水路を整備し、疫病を防ぎ、読み書きや技術を教える。派遣民とは、土地の事情に応じて暮らしを改善しながら、人々が自らの力で生活を営めるよう支援する者たちだった。
その活動は、やがて各諸国の生産力を高め、ノアリアの製品や知識が市場に広がっていく。ノアリアは武力によって世界を支配するのではなく、人々が必要とするものを生み出すことで、文明の中心になろうとしていた。
だが、支援によって暮らしが豊かになるほど、新たな問題も生まれる。他国の知識に頼ることは、自立を失うことなのか。生活を守るための制度は、いつしか人々を縛るものになるのか。善意によって作られた仕組みは、誰が管理し、誰がその責任を負うのか。
こうした問いは、やがてノアリアの外側だけでなく、その内部にも突きつけられていく。
この世界には、人間が生きる時間とは異なる時間を生きる存在がいた。不老者という。
彼らは長い年月を経ても生き続け、成熟に至る過程で一時恐ろしい暴君となる。その存在は、国家の歴史や軍事制度にも、見えない影響を及ぼしていた。
タリスは、希少な超硬質鉱物を用いた武器と軍事技術を発展させ、強大な軍事力を築いた。さらに、王の命令に従って巡回する、全身を装甲で覆われたカラクリの警備員「巡回人」を運用していた。
巡回人は、かつての王と錬金術師が生み出した、特別な保護・防衛システムだった。だが、その設計思想と運用の責任は、時代を経るにつれて曖昧になっていく。
一方、世界の各地には、さらに古い約束に基づいて動く組織「神の兵」が潜伏していた。
彼らは特定の国籍に属さず、普段は民間人などに紛れて暮らしている。各地の情報を集め、国を統治するにふさわしい王候補を見極め、必要に応じて王の助言役へ情報を届ける。彼らの活動は、表向きには知られていない。
人々が公に信仰するシノア神と、神殿に捧げられる物資。その背後には、世界各地の貯蔵庫と物流網、そして各地に潜伏する兵や支援者を結びつける古代の仕組みがあった。
神殿が失われれば、古い約束もまた忘れられていく。しかし、神殿が再建され、かつての窓口が再びつながったとき、眠っていた仕組みが動き始める。
それは、世界を守るための秩序なのか。
それとも、誰も全容を知らないまま受け継いできた、制御不能な遺産なのか。
*神殿の再建と、世界の均衡
ノアリアで神殿の再建が進むと、シノア神への信仰は再び広がり、やがて国の宗教的な基盤となっていく。
しかし、信仰の復活は、単に人々の心を一つにするだけではなかった。神殿を介して、かつて各地に散らばった神の兵のネットワークが再接続される可能性が生まれたのである。
そのころ、ファブルとカミルをめぐる戦争が起こる。
タリス軍の兵力が不足するなか、ファブルは危機に陥る。そこへ、カミル軍の一部と、正体の分からない軍勢が現れ、ファブルを挟撃する形で戦局に介入する。
その軍勢が誰の命令で動いたのか。なぜ、敵味方の区別を超えたような行動を取ったのか。
表の歴史に記される戦争の経過と、裏で動く者たちの意図は、必ずしも一致しない。
ノアリアは、各国の文化や政治を一律に塗り替えるのではなく、それぞれの土地が自らの社会を維持できるよう、知識や技術を提供していく。その一方で、タリスはノアリア周辺の防衛を担い、ノアリアの文明が軍事的な支配と結びつかないよう、別系統の組織として力を保持する。
こうして世界は、表向きにはノアリアの文化と経済を中心に、背後ではタリスの防衛力と古代の仕組みによって支えられる秩序へと変わり始める。
だが、その秩序を支える者たち自身も、すべてを理解しているわけではない。
*巡回人の再構築と、責任の所在
時代が下り、巡回人の設計思想は新たな問題に直面する。
ロキは、巡回人の核にプロンプトを登録し、既存の設計を再構築する。そして、旧式の巡回人を破壊するための改良型を十四体製作する。
彼は、ただ新しい兵器を作るのではなく、停止コードを設計書に記載し、技術者たちへ公開する。巡回人の構造を一部の人間だけが独占するのではなく、多くの者が理解し、危険を認識し、必要であれば停止できるようにするためだった。
しかし、情報を公開すれば、必ず安全になるとは限らない。
設計書を手にした者が停止コードを改変し、ブラックマーケットで逃走用のコードを流通させる可能性もある。善意から作られた安全策が、別の者によって抜け道へと変えられることもある。
巡回人を作った者は、その後のすべての使われ方に責任を負えるのか。
技術を隠せば独占が生まれ、公開すれば悪用の危険が増す。ロキは、設計書を公開するという選択によって、その矛盾を技術者たち全体へ突きつける。
やがて現王は、ロキの仕事を知り、自らの相談役にも改良を求めるようになる。
ここでも問われるのは、優れた仕組みを作れるかどうかだけではない。その仕組みを誰が理解し、誰が管理し、誰が止められるのかという問題だった。
*不老者の発見と、崩壊するタリス
タリスの軍事制度が揺らぐなか、兵営では人間とは異なる時間を生きる不老者の存在が、改めて問題となる。
不老者には、激しい食欲と狂乱を示す過食期と、水だけで安定して生きる時期がある。彼らの存在は軍の管理体制を脅かし、隔離施設や重装甲の装備を必要とするようになる。
しかし、彼らを保護する仕組みも、管理する者がいなくなれば機能しない。
タリスが崩壊したとき、隔離された不老者たちはどうなるのか。彼らを閉じ込めた者たちが去り、食事も管理も途絶えたとすれば、その責任は誰が負うのか。
ハクジャとキケロは、タリス崩壊後の放棄された隔離施設を訪れる。
キケロ自身も、長い年月を土中で半休眠状態のまま過ごし、発掘されて再び目覚めた存在だった。彼の身体と経験は、人間が想定する時間の尺度だけでは、不老者を理解できないことを示している。
不老者を単なる脅威として排除するのか。それとも、人間とは異なる時間を生きる存在として、その生存と管理の方法を考え直すのか。
タリスの崩壊は、強大な軍事力を失う出来事であると同時に、その軍事力が隠してきた問題を、次の時代へ引き渡す出来事でもあった。
*セレニア――貨幣を受け入れ、自立を守る
一方、タリスの属州国セレニアでは、別の形で秩序が変化していた。
かつてセレニアは、人口が少なく、商業も乏しい貧しい土地だった。しかし、派遣民の知識を取り入れ、水路を改良し、農地の生産力を高めることで、次第に豊かになっていく。
その変化を担ったのがサラだった。
セレニアの人々は、タリスの保護や貨幣に依存することを望まなかった。生活必需品は物々交換によって確保し、自分たちの力で生きていこうとしたのである。
しかし、貨幣を拒むことと、他国の技術を拒むことは同じではない。
サラは、タリス正貨を穀物と交換できる仕組みを整え、軍票にも備蓄に基づく交換保証を設けた。さらに、タリス兵による製品の購入や技術者の雇用を通じて、村に正貨を流通させた。
それによって商人が集まり、ノアリアの高品質な製品や異国の衣服が市場に並ぶようになる。
それでも、セレニアは生活必需品の物々交換ルートを手放さなかった。貨幣で購入できるものを増やしながら、貨幣が失われても暮らしを維持できる仕組みを残したのである。
タリス本国から派遣された監査官ヴァルナーは、セレニアの急激な納税額の増加を調査する。帳簿には不正の痕跡がなく、軍票の取引も備蓄も、制度上は合理的に説明できた。
やがてヴァルナーは、サラが築いた仕組みの強さを理解する。そして本国の財政が破綻した場合に備え、自らの一族の財産を守るための協力関係をサラに提案する。
こうしてセレニアは、タリスの制度を利用しながら、自らの生存基盤を守る道を切り開いていく。
セレニアの物語は、ノアリアが世界へ広めようとする文明の理念を、別の角度から照らし出す。
豊かさを得るために他国とつながることと、他国に依存することは同じではない。自立とは、何にも頼らないことではなく、頼るものを選び、一つの仕組みが失われても生き続けられるようにすることなのだ。