十一月中旬。
時刻は十時二十分。
秋も終わり、そろそろ雪が降るのではないかと思うくらいにまで寒くなった早朝。
朝七時から缶詰で行っていた研究に一区切りがつき、社内の休憩所で休んでいたところ。
うるさいやつとばったり会ってしまった俺は、もう一つ缶コーヒーを買うことになった。
「哉さーん、いただきまーす」
「くそぉ、こんな時間から久遠に奢ることになるとは」
愚痴には目もくれず、缶コーヒーを口につけごくりと飲み込み、嚥下する音が聞こえてくる。
「いやいや、哉さんって僕よりも稼いでるでしょ? やっぱりそのくらいはしてくれないとさ?」
「稼いでるからって奢る通りはないんだよ……だいたい、一応同期だろ」
「アラサーじゃないっすよ僕」
「うぐっ」
ほんと、二十四歳だからって調子に乗りやがって。
もう来年にはアラサーの仲間入りをするというのにお気楽なこと言ってきやがる。
ほんと、アラサーに突入してから色々と体にガタが来ている。
大学生の頃からうすうす感じてたけど、もう高校生の頃みたいに夜更かししても寝れば回復! なんてうまくはいかない。
先輩からはまだまだ二十代なんていい方だよ、とか言われるけど。隣の芝生が青く見えてるだけで、今の俺にとってはこの体でも随分ガタが来ているほうだ。
「って、そういえば……セックスしました?」
「セッ――——んぶふっ⁉」
唐突な質問に俺は口の中に含んでいたものがすべて飛び出した。
「お、ちょっと、汚いっすよ哉さん」
「き、きたないって……お前、今なんて言ったか分かってるのか?」
俺は口から出たものを携帯しているポケットティッシュでふき取り、周りに目を配った。
誰もいない廊下。
この時間休んでいる人は中々いないため、閑散としている。
どうやら周りに誰もいない。
これなら大丈夫か、一安心して切り詰めた緊張感を緩めた。
「分かってますよ、セックスっすよ、セックス」
「わ、分かった! 悪かったよ。俺が二度聞いたのが悪かった。やめろ、こんな公共の場でそういうこと言うの!」
「別に誰もいないですし大丈夫っすよ。ていうか、哉さんくらいにしか言わないですし。知ってます? 僕って第二研じゃちょー真面目なんすよ?」
第二研と言うのは彼が今所属している会社《うち》の研究室の一つだ。
ちなみに、俺が第一研でもある。正直序列とかはないが、研究している分野がやや違うため交流はそこまでない。
「仕事で真面目なのは当たり前だよ。というか、誰もいなくても言うな。誰か来たらどうする」
「哉さんがセクハラしたって訴えますね」
「ふざけんな! 濡れ衣じゃねえかよおい!」
「ぐへへ、僕がこれまで社員たちを仲間にしてきた甲斐がありますなぁ。みんな僕の見方っすよ!」
「どこぞの悪役だよ、ほんと」
もちろん、仲間というのは冒険の仲間とかパーティ的な意味ではない。
性的な、それはもう――いわゆる友達《セフレ》のような言い方だ。
「ていうか、第一研《うち》の女性研究員口説くのやめておけよ……まじで。刺殺でもされそうになっても助けないからな」
「はははっ。出してないっすよもちろん。あそこは哉さんのテリトリーっすもんね」
「おい、やめろ俺も一緒にするな」
最近では外部の人間じゃ飽き飽きしてるらしく、社員にもその手が及んでいるらしい。もう大人だし、生憎と会社《うち》の社風は自由だから説教する必要は皆無かもしれないが少し怖い。
この世で一番怖いのが男女関係の縺れということは俺が身に染みてよく分かっている。
少し思い出していると、隣の久遠は何も考えずに話をぶっこんだ。
「話巻き戻しますけど、したんすか?」
「……」
したもなにも何も手は出してはいない。
いや、手は出したかもしれないけど。
あっちの意味ではない。
俺は久遠のように女性に対してガツガツ行ける性格でもないから当たり前のことだ。
そんな不健全な仲でもなかったからな、俺と栗花落は。
「—―哉さん?」
「やってないよ、別に」
まぁ、その可能性も一ミリ願っていた自分がいたのは事実だが。
あからさますぎるようなこともしないし、そんなことしてしまったら今度こそ俺が俺でなくなってしまう。
しかし、俺の内情なんか知らず久遠は驚いた表情を浮かべた。
「えっ、マジすか」
マジすか、じゃねえ。
この前、元カノって言ったじゃねえかよ。
「元カノ相手にまた会ってヤるかよ、ったく」
「いやいや、ヤりますよ。当たり前じゃないすか」
「俺に当たり前の定義を教えてくれっ」
「友達と勉強するくらい当たり前っすよ」
「それじゃあ俺は友達と勉強してもないみたいだな」
そんな当たり前、あってもらったら困る。
というか服の件もそうだが、久遠に相談した俺がまず間違えていたのかもしれないな。
悪態をつくように持っていたコーヒー缶をゴミ箱へ投げると、久遠も飲み終えたのか俺の後に続き投げ捨てた。
角に当たって中に入った俺の缶とは違い、バスケのフォームですっきりと入ったのはさすがバスケ部と言ったところか。
高校三年間、いや中学からの六年間。永遠と帰宅部していた俺とは大違いだ。
「戻るか」
「っすね」
かれこれ、十分ちょっと。
さすがにこれ以上休憩所で休むのは他に迷惑をかけてしまう。
戻ろうと歩き始めると、第二研の前で久遠が足を止めた。
「どうした?」
「いやぁ、哉さん……」
声を掛けると、背中のまま。
いつもの軽い声色を浮かべず、少し重めな口調で俺の名前を呼んだ。
普段と違う、違和感を抱えたままに久遠は呟いた。
「—―伝えること、伝えておかないと後悔しますよ」
途端に吐かれた言葉に、俺は動揺した。
「え」
驚いて飛び出た一言に、久遠はすぐにいつものあの笑みを浮かべる。
「いやいや、哉さんもセックスしないと後悔するって話っす」
「っう、うるせぇ……」
そうして、扉を開けて中に入っていく。
白衣がふわりと揺れて、舞い上がるのが見えて俺も歩き出す。
いやはや、しかしだ。
急に、どうしたんだ久遠は。
伝えておかないと後悔するっていうのは……。