最後まで頑張れたものが成功する。これはまあ成功するまで頑張っているのだから割と当然のことである。でも多くの人は出来ない。でも頑張ってないかといえばそれは違う。成功という結果だけで努力までも決めてしまうのはよくない。その悪意の分かりやすい例として、地面を掘り続けて途中であきらめた人と宝石にたどり着くまで掘り続けた人が並列された風刺画がある。あの絵から得られるのは頑張り続けることの重要性よりも、結果が全てという事実である。掘り続けて掘り続けて宝石に到達しなかったならそれは怠慢なのか。並んだ二人はどちらも諦めるつもりで掘り続けてなどいない。何ならやめたいと強く思う気持ちを必死に抑え込んで得られるものを信じて何とか続けてきたはずである。報いがあってもいいほどの道を掘り続けてきたはずである。それを無視してあの風刺画は嬉々として宝石にただりついたものにスポットライトを当てる。こっちが素晴らしいと。あれを見てからというもの頑張ることが恐ろしくなった。続けることがリスクだと思うようになった。そして頑張れなくなった。ように思わされている。頑張っていない?そんなわけがないじゃないか。あの絵が自分に呪いをかけた所為で何か素晴らしい結果が出てない自分が何も頑張ってなくて、微塵の努力もしてないように思わされる。分からない実際にしてないのかもしれない。自分で分からないのだから結果しか見えない他者はなおさらであろう。だから自分だけは自分がちゃんとやってんだって信じてあげようと思う。そうすると余裕のない人は自分のあらかたの環境、境遇だけで判断して「うまくいってない」と烙印を押してくる。あるいは「俺の方がうまくいっている」ということを遠回りに主張してくる。事実が自分の気持ちや意志を折ろうとしてくるけど負けないでいたい。
葛藤は不幸ではない。