『維新示現』には清国の兵士が登場します。
では当時の清国軍は、日本軍や現代軍のように、
「師団 → 連隊 → 大隊 → 中隊 → 小隊」
と、全国共通の編制で動いていたのでしょうか。
実際には、かなり違いました。
1877年の清国には、八旗、緑営、さらに太平天国の乱を通じて発達した湘軍・淮軍など、性格の異なる軍事組織が並存していました。
今回は、その中でも地方でよく目にする緑営と、19世紀に力を持った湘軍・淮軍系の部隊について、組織単位だけ簡単に見てみます。
緑営の基本――「標・協・営・汛」
緑営は、主に漢人兵によって構成された清朝の常備軍です。
地方ではおおむね、
標(ひょう)
↓
協(きょう)
↓
営(えい)
↓
汛(じん)
といった単位が使われました。もっとも、これは現代軍の師団・連隊・大隊をそのまま置き換えたものではありません。人数も地域によってかなり違います。
「標」は、総督・巡撫・提督・総兵など高級指揮官の直属兵を意味します。
たとえば提督直属なら提標、総兵直属なら鎮標。
したがって「標=○千人」と決まった部隊というより、高級指揮官の直轄部隊と考えた方が分かりやすいでしょう。
その下で重要になるのが営です。
緑営では営が基本的な駐屯・編成単位でした。
ただし人数は一定ではありません。
数百人程度の営が多いものの、場所や任務によって規模はかなり違いました。さらに営の兵士は一か所に固まっているとは限らず、小さな駐屯地へ分散します。
その末端が汛です。
道路、町、関所、河川などを警備する小規模な駐屯部隊で、千総・把総などの下級武官が率いました。
つまり緑営は、大軍が常に一か所へ集結しているというより、
各地に小さな部隊を細かく配置して治安を維持する軍隊
という性格も強かったわけです。
湘軍・淮軍では「営」がよりはっきりした
ところが19世紀半ば、太平天国の乱によって状況が変わります。
従来の緑営だけでは大規模な反乱への対応が難しくなり、曾国藩の湘軍、李鴻章の淮軍といった地方軍が発達しました。
こちらでは「営」の編制がかなり明確になります。
湘軍・淮軍系では、一営がおよそ500人規模。
一営の中に、
前哨・後哨・左哨・右哨
という四つの「哨」が置かれ、さらに哨の中が小さな隊へ分かれました。
資料には、一営504名、各哨108名というかなり具体的な編制も残っています。
現代軍の言葉へ無理に置き換えるなら、
営 ≒ 大隊
哨 ≒ 中隊
隊 ≒ 分隊・小隊級
くらいの感覚になります。
ただし、これはあくまで理解しやすくするための比喩です。現代軍と完全に同じではありません。
なぜこんなに複雑なのか
清国は非常に広大でした。
しかも19世紀には、
従来の八旗・緑営が残る一方で、
湘軍や淮軍のような地方軍が成長し、
さらに緑営を再訓練した練軍なども作られていきます。
つまり1877年は、
古い軍制と、新しい軍制が同時に存在していた時代
です。
全国どこへ行っても同じ装備、同じ人数、同じ訓練を受けた部隊が出てくるわけではありません。
ある地域では旧式の緑営兵。
別の地域では西洋式銃器を導入した地方軍。
そして、その中間のような部隊もいる。
この「統一されきっていない状態」が、清末という時代の面白いところでもあります。湘軍の組織方式はその後、淮軍をはじめ各地の地方軍にも広がっていきました。
『維新示現』でも、清国兵を単純に「清国という一つの近代軍隊」としてではなく、
同じ清朝の軍人でも、所属や地域によってかなり違う
という感覚で描いています。
近代兵器が入り始めている。
しかし軍制そのものは、まだ近代国家の軍隊として完成していない。
1877年は、そんな軍隊まで過渡期にあった時代でした。