今回投稿した「ミヤザワケンジ2.0のAI夢物語 カネの力で近世世界を平和統一します!?」の第6話では、宮沢賢治作品の戦争利用という少しヤバい分野に入り込みました。
本編では書けない元ネタをご紹介します。
衝撃的な面があります。
戦争に関心のない方はここで引き返してください。
(戦争注意!)
まずは少年満蒙開拓義勇軍から
私達は独立の村を建設したならば先づ内地農村で衰退してしまった郷土芸術の再興に努力するでしょう。宮澤賢治の考えて居た事を私達は満州の大平野の中に実現しようとして居るのです。
(1940年1月 満蒙少年開拓義勇軍隊員の手紙より)
「満州に送り込まれる少年たちの姿があった。彼らは、宮沢賢治の芸術と農業の理想を満州で実現しようと純粋に信じていた。しかし、現実には満州の農民たちは虐げられ、多くの少年たちが満州の荒野で命を落とした。」
と書いた部分の元ネタはこの手紙です。
宮沢賢治の死後ですので宮沢賢治自身には何の責任もありませんが、宮沢賢治の農業に対する理想が満州進出の美化に利用された歴史があります。
宮沢賢治は満州についてこんな反戦反軍詩を作っているのに、無念。
日露戦争戦没者慰霊碑を題材とした詩「霰」より
東京も見たことがないのに
いきなり満州へ連れて行かれて
荒漠とした雪なか
黄いろな土塀のある村で
頭巾のついたカーキーいろの外套と
ぼろぼろの着換えや袋をしょって
どんな気持ちで死んだらう
次はこの部分です。
「宮沢賢治の友人である中国人詩人は、愛する日本と祖国の間で苦悩しながら祖国のために戦った。彼は中国軍の将軍にまでなったが、戦後は党中央に疎まれ、10年以上も投獄される運命をたどった。」
これは史実の黄瀛(こうえい)氏です。
中国人の父、日本人の母を持ち、日本の士官学校を卒業。日本で詩人デビュー、宮沢賢治、草野心平と同人誌「銅鑼」で活躍。宮沢賢治より早く日本文壇で高く評価されました。
中華民国軍で伝書鳩の専門家として副師団長相当職、少将まで出世しましたが、戦後は文化大革命で投獄されました。
くわしくはwikipediaで
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E7%80%9B
次はこの部分
「「世界がぜんたい幸福にならない限り個人の幸福はあり得ない」という宮沢賢治の言葉や「雨ニモマケズ」の精神を、武力による進出の正当化に利用する者たちも現れた。」
ええ、本当?と思う人が多そうですが、実際戦時中の宮沢賢治伝記ではこんな表現があります。
「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない。」
のであります。米英が、アジアから去らないうちは、アジアの幸福はあり得ないともいはれませう。これは、こじつけといふものではありません。
(1943年1月「宮澤賢治」森荘已池著)
こじつけでしょう!
(引用者注 雨ニモマケズについて)
何百年としひたげられて来た、大東亞共榮圏の中の、よはい、たくさんの民族を、病氣の子どもや、つかれた母と見ることは、少しもさしつかへないのであります。
(1943年1月「宮澤賢治」 森荘已池著より)
さしつかえありまくりでしょう!
次はライトノベルのこの部分
「私の教え子や義理の弟まで戦争で命を落としたのですか……。」
宮沢賢治の代表的な教え子で「あすこの田はねえ」「稲作挿話」の少年のモデルとなった菊池信一氏が1937年に北支戦線(現在の中国北部)で戦死しています。
義弟(賢治の妹クニの夫の弟)の刈屋隼人陸軍中尉が1945年3月ニューギニア北西ビアク島で戦死しています。戦中日誌「苦斗じだい」が出版されています。
次は特攻隊の表現
「特攻隊が組織される中、ある若い隊員が登場した。彼は将来を期待された経済学徒であった。宮沢賢治の童話「烏の北斗七星」を心の支えにしながら、軍を批判する遺書を残し、南の空に散っていった。」
これは実在の特攻隊員がモデルです。
僕の気持はもっとヒューマニスティックなもの、宮沢賢治の烏と同じようなものなのだ。憎まないでいいものを憎みたくない(略)正直な所、軍の指導者たちの言う事は単なる民衆煽動のための空念仏としか響かないのだ。
東大卒特攻隊員 佐々木八郎氏の遺書的エッセイより
当時としては珍しく検閲なく愛国心も愛人類心も反軍反戦的な気持ちも表れた実に感動的なエッセイなのでぜひ読んでください。
https://bungeikan.japanpen.or.jp/515/
次はこの部分です。
「1945年8月。アメリカ軍は広島と長崎に原子爆弾を投下した。ある母親が、放射線障害で苦しみながら、「銀河鉄道に乗りましょう」と三人の子供たちに語りかけ、息絶える姿が映し出された。」
こちらは宮沢賢治研究家小倉豊文氏の妻小倉文代氏が広島で被曝された御最期の様子をモデルにさせていただきました。
急性放射線障害の高熱のなかで
「ケンジチャマ」
「みんなして青空にゆきましょう」
「花巻にはやくゆきたいわね」
「ポランの広場はわかったの」
「はやく銀河鉄道にのりましょうよ」
とつぶやいてお亡くなりになったとのことです。
宮沢賢治研究家hamagaki様のブログを参考にさせていただきました。深く御礼申し上げます。
https://ihatov.cc/blog/archives/2024/10/post_1128.htm
宮沢賢治を愛する我々には悲しいことですが、宮沢賢治の死後、宮沢賢治作品は戦争推進に利用されました。
しかし、戦争の犠牲になった方々の心の支えや慰めにもなったのです。