私は、一時期、小説を書くという行為に、どうしようもないほどの閉塞感を覚えていました。
書き始めた当初は、まるで水が溢れ出すかのように言葉が、情景が、キャラクターの感情が、とめどなく流れ出てきました。プロットは頭の中で鮮明に展開され、キーボードを叩く指が追いつかないほどでした。あの頃の自分は、物語の創造主として、全能感すら覚えていたように思います。この物語は、私の最高傑作になる。読者を熱狂させ、私自身も満足する、素晴らしい作品になるに違いない、と。
しかし、物語が中盤に差し掛かり、登場人物たちの運命が複雑に絡み合い始めた頃から、徐々に雲行きが怪しくなってきました。
当初設定した壮大な世界観は、細部に目をやると矛盾が生じ始め、伏線の回収は、まるで蜘蛛の巣のように複雑に入り組み、どこから手を付けていいのか分かりません。特に、主人公の取るべき「次の一手」が、どうしても納得のいくものとして思い浮かばない。物語の核心に迫る重大な岐路で、私の思考は完全にフリーズしてしまったのです。
まるで深い泥沼に足を取られたかのような日々でした。パソコンの画面を開けば、前回書き終えた、たった数百字の文章が私を待ち構えています。それを前にして、一文字も打てない。何時間も、ただ画面とにらめっこをする。その間に、紅茶は冷め、夜が明けていく。
「どうして書けないんだ」
その焦燥感は、日に日に私を蝕んでいきました。以前はあれほど楽しかった創作活動が、いつしか重いノルマとなり、そして、耐え難い苦痛へと変わっていったのです。書けない自分に対する自己嫌悪、物語を完成させられないという不甲斐なさ、そして、このまま未完で終わってしまうかもしれないという恐怖。それらがごちゃ混ぜになり、私の心は乱れていきました。
友人や知人に「書いてたらしい小説はどう?」と聞かれるたびに、胸の奥がきゅっと締め付けられるような痛みを感じました。「ああ、あれね。今、ちょっと詰まっちゃってて」と曖昧に答えながら、心の奥底では「このまま、永遠に書けないんじゃないか」という絶望的な囁きが響いていました。
この状況を続けていては、物語が壊れてしまう。そう直感した私はある日、苦渋の決断を下しました。
「一旦、この物語を『完結』扱いにしよう」
もちろん、それは真の完結ではありません。物語の途中で、言ってみれば「未完の大作」として読者には謝罪し、私自身には「一時停止」の符丁を打つ行為でした。物語の続きを期待してくれていた読者の方がいたのなら申し訳ない。しかし、このまま中途半端な状態で、無理やり続きを捻り出そうとする方が、作品にとっても、私自身にとっても、より不誠実だと判断したのです。
小説のファイルを閉じ、パソコンをシャットダウンした時の、あの何とも言えない感覚を、今でもはっきりと覚えています。解放感と敗北感が綯い交ぜになった、複雑で、しかし、ある種の安堵を伴う感覚でした。
「参っていた」のは、小説が書けないという事実以上に「書かなければならない」という強迫観念に囚われていたからかもしれません。その呪縛から、私はようやく解き放たれたのです。
それから、私は小説から意識的に距離を置きました。物語の世界から完全に離れ、本を読んだり、映画を観たり、散歩をしたり、友人との他愛ない会話を楽しんだり、ごく普通の日常を取り戻すことに集中しました。
すると、どうでしょう。心に静けさが戻ってきたのです。
創作から離れた期間は、私にとって、ただの空白の時間ではありませんでした。それは、物語の登場人物たちと、作者である私自身が、互いの存在を無視して過ごすための、必要な「間(ま)」だったのです。
しばらくして、ふとした瞬間に、あの止まっていた物語のことが頭をよぎることがありました。それは、以前のような重苦しいプレッシャーを伴うものではなく、まるで遠い知人について思いを馳せるような、穏やかな感情でした。
散歩中に見かけた美しい夕焼けの色が、物語のクライマックスの情景と重なったり、カフェで耳にした他愛ない会話の一部が、登場人物のセリフとしてぴったりと当てはまったり。そういった小さな出来事の積み重ねの中で、少しずつ、まるで霧が晴れていくように、止まっていた思考が動き始めたのです。
そして、ある日、決定的な瞬間が訪れました。
再び、あの小説のファイルを開いてみたのです。恐る恐る、前回で終わらせた箇所の文章を読み返す。そこには、過去の自分が苦しみながら紡いだ、情熱の痕跡がありました。
そして、その瞬間に、止まっていたパズルの最後のピースが、カチリとはまったかのように、物語の「続き」が、鮮明に、かつ、確信を持って、頭の中に流れ込んできたのです。
「ああ、そうか。主人公は、ここで、こんな行動を取ればよかったんだ!」
以前の私は、物語の論理や、読者の期待という「外側の基準」にばかり気を取られ、登場人物の「心」を見ていなかったのかもしれません。間を置いたことで、彼らの心の声が、ようやく私に届いたのです。彼らは、私の押し付けではなく、彼ら自身の論理で、次に進むべき道を選びたがっていた。
心が落ち着き、客観的な視点を取り戻したことで、物語の構造的な問題点も、以前よりもずっと冷静に把握できるようになりました。複雑に絡まりすぎていた伏線は、簡潔な一本の線にまとめられ、矛盾していた世界観の辻褄も、自然な形で合わせることができたのです。
「一時完結」という名の休憩を経て、私は今、あの小説の続きを書いています。
一度は泥沼に沈みかけた物語ですが、その休止期間があったからこそ、より深く、より確かなものとして、再生することができました。あの苦しい日々も、物語にとっては必要な助走だったのだと、今では思えます。
創作は作者の精神状態と密接に結びついています。心が乱れていれば、物語も乱れる。心が静かで満たされていれば、物語もまた、穏やかで力強い流れを取り戻す。
物語を途中で止めるという決断は、敗北ではありませんでした。それは、物語を殺さずに、より良い形で生かすための、最も誠実で、最も勇気のいる選択だったのです。
さあ、キーボードを叩きましょう。登場人物たちが、私を待っています。今度こそ、彼らを最高の結末へと導くために。この「一時停止」の経験を、創作人生の貴重な糧として、私はまた一歩、物語と共に踏み出します。